♡の絵文字のはなし。

ポケベルの「♡」が絵文字のルーツであることは絵文字はなぜ生まれたか − メラビアンの法則で書いた。このポケベルの「♡」にまつわる興味深い話がある。呼び出し→数字送信→カナ送信と進化してきたポケベルだが、次いでドコモがリリースした「インフォネクスト」は情報配信サービスを受けられることと漢字を受信できることが売りの新機種だった。ポケベル市場は1996年をピークにその後徐々にPHSにその市場を侵食されつつあったので、ドコモとしては満を持して発売した自信の商品だったわけだが、どうしてそうなったのか今まで存在した「♡」の絵文字がきれいさっぱり仕様から外されていた。

当時のドコモのライバル会社、東京テレメッセージの機種は変わらず「♡」の絵文字の利用は可能で「これによって若年層を中心にドコモから東京テレメッセージに顧客が流出する」という事態が起こった。テレメッセージが「絵文字が使えます」と特段アピールしていたわけではなく今のようにネットで情報が流れたわけでもなく、あくまで口コミベースで「ドコモは♡が送れない」というネガティブ情報が広まってユーザーが離れたのだ。

ちょうどこの流出騒ぎと絵文字の開発のタイミングが同じタイミングだったので、この事件が僕に与えた影響は大きかった。iモードメールで「絵文字がきっとキラーになる」という自信を深めるとともに「♡」の破壊力に改めて驚かせられた。最初の176種類の絵文字セットの中で「♡」が5種類もあるのは明らかにその影響である。

ちなみにこの「♡」の絵文字。女性は「♡」をあくまで「カワイイ」という理由だけでメールに多用するのだが、受け取った男性がこの「♡」を「女性からの好意」だと勘違いする事態がその後、日本中で起こった。故やしきたかじんのラジオ番組から以前僕宛に「女性が本命に送る♡マークはどれですか」という質問がドコモ広報経由で来たことがあったので「女性はあくまで無意識に♡を使っていますよ」と回答した覚えがある。「THE VERGE」の取材でJeff Blagdonさんに海外ではどうか尋ねたところ、やはり海外でも女性が「♡」を送る理由は「カワイイ」からなのに男性がムダに勘違いしているそうで、Jeffさんから「罪深いものを作りましたね」と言われてしまった。

そんなエピソードのせいもあって、取材で「好きな絵文字はなんですか?」と聞かれた「♡」と答えるようにしている。


ハートといえば伊藤若冲動植綵絵老松白鳳図もポップでいいよね。江戸時代にすでに使われていたハートマーク。

絵文字はなぜ生まれたか − PocketNet

デジタルのデキストコミュニケーションにおける齟齬をなくすために、テキストに感情情報を付帯する役割として絵文字が生まれたという話を前回書いたが、絵文字が生まれた理由としてはもうひとつ、限られた制約の中で情報を分かりやすく伝える、という役割もあった。

iモードは「ケータイだけでインターネットできる」をコアバリューとして開発されたサービスである。インターネットに必要なパソコンとプロバイダ契約というエントリーバリアーの高さをできる限り低くし、ごく一般の人がインターネットを使って情報を検索したり、コンテンツを楽しんだり、eメールを使ったりすることができる世の中を目指していた。

とはいえ当時のケータイのディスプレイサイズはiモードのために大きくしたとはいえ、横全角8文字、縦全角6文字、計全角48文字を表示できるだけの、今から思えばあまりにも小さく表現力に乏しいディスプレイだった。通信量とモノクロディスプレイの関係から画像を表示することも困難(のちにGifのライセンス契約が成立して501iからGifの表示は可能となるが、仕様検討時は画像表示はできないという前提だった)。この限られた表現力の端末で天気予報やニュース、占いといった情報コンテンツを見てもらわなければならない。そうなると必然的に絵文字のような情報を分かりやすく伝えるためのアイコンが必要となったのである。

実はケータイによる情報配信サービスはiモードが世界初ではない。アメリカの通信キャリアであるAT&Tワイヤレスがアメリカで1997年頃から2004年まで提供していたPocketNetというサービスがある。このサービスはCDPD(Cellular Digital Packet Data)という、AMPS(アナログ方式の第一世代携帯電話北米規格)の携帯電話が通常使っている帯域(800MHz〜900MHz)のうち使われていない帯域幅をデータ転送に利用する方式が使われていた。このCDPDはあまり普及せず最終的にはGPRS(General Packet Radio Service)に敗れることになるが、とはいえ1997年当時は先進技術であり、一般消費者向けのインターネットサービスの草分け的存在であった。さらにPocketNet対応の端末はエリクソンの他は意外なことにパナソニック三菱電機という日本メーカーから出ていた。

PocketNetのCM

iモードの仕様を策定中だった1997年、僕は開発の参考にするためにサンフランシスコに行って、PocketNetをホテルの部屋で使い倒したことがある。サンフランシスコの路面電車から日本のPCにPocketNetの端末からeメールを送った後、わざわざ電話でメールが届いているかどうか確認してちゃんと届いていたときは感動したものだ。上記のCMで端末にディスプレイが映っているのでお分かりだと思うが、表示がエリアが3行しかない上にテキストばかりで分かりづらい。天気予報は「Sunny」とか「Cloudy」とか全部文字で表記されるし、表示方法もHDML方式のように画面をスクロールするのではなくページをボタンでめくっていくタイプのUIでとにかく使いづらかった。この体験がなければiモードのあのUIは生まれなかっただろう。PocketNetの天気予報やスポーツニュースや占いコンテンツを使うことで、文字だけで情報を伝える難しさも痛感したのである。もしニュースの天気予報で絵文字を使っていなかったら、ものすごく分かりにくいことになるのは容易に想像できる。

絵文字は文字に感情情報を付帯するだけでなく、限られた情報量の中でいかに分かりやすく情報を伝えるか、というニーズからも生まれたものなのである。

絵文字はなぜ生まれたか − メラビアンの法則

メラビアンの法則」をご存じだろうか?アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが1971年に提唱した法則で、相手に与える影響として、発せられる言葉や話の内容よりも伝えるときの表情や口調の方が相手に対して強い影響力を持つ、というものである。メラビアンは矛盾した情報が与えられた場合、人は何を重要視して受け取るのかという実験を行った。矛盾した情報とは具体的には「笑いながら叱る」「怒りながらほめる」といったようなことである。実験の結果、情報を受け取る側が影響を受ける情報の割合は、会話の内容などの言語情報が7%、会話のピッチや声のトーンといった聴覚情報が38%、話し手の表情やボディランゲージなどの視覚情報が55%であった。この割合から「7-38ー55のルール」や言語情報(Verval)聴覚情報(Vocal)視覚情報(Visual)の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。

前述の具体例の場合、笑いながら叱られても受け手は「叱りの言葉」よりも「笑い」の情報の方を優先して反省せず、怒りながらほめられても受け手は「ほめ言葉」よりも「怒られた」情報の方を優先してほめられたとは認識しない。コミュニケーションにおいて、人は純粋な文字情報よりもそこに込められた感情情報を優先して受け取る傾向が強いのである。

電話や対面によるコミュニケーションをホットコミュニケーション、文字によるコミュニケーションをクールコミュニケーションと分類されることも感情情報の有無によるものであるが、電子メールによって普及した文字コミュニケーションは簡潔・簡便であることが尊重されるため、従来の文字コミュニケーションよりも感情情報が乗せづらいことが特徴である。アナログな手紙も同じ文字による伝達であることに変わりはないが、手書きの文字である意味は大きい。コミュニケーションに感情を乗せづらいということはメラビアンの法則によれば文字情報の7%以外の93%の情報領域は受け手が想像で補完するしかなく、それによってディスコミュニケーションが生じてしまうことがデジタルな文字コミュニケーションが抱える課題だといえる。

僕はポケベルでこのディスコミュニケーションを初めて体験する。すでにポケベルを知らない世代もいるのであえて解説するが、ポケベル(ポケットベル)とは電波によって小型機器に簡易な信号を送信するシステムおよび端末のことを指す。その歴史は古く最初のサービスは1958年にアメリカで、日本では1968年にはじまっている。当初は単なる音による呼び出しだけで、ポケベルが鳴ったら自身で電話を折りかえすという半アナログなサービスだった。1991年頃にプッシュ信号によって数字が送れるようになり、本来は折り返し先の電話番号を送る目的のサービスが数字の語呂合わせでメッセージを送るという目的に変わった。「0833(おやすみ)」「0906(遅れる)」「10105(今どこ?)」「724106(何してる?)」「114106(愛してる)」などなど。あくまで短方向通信なので相手にメッセージを送り返す場合は端末単体では返信できず、プッシュ式の電話機から操作する必要があった。

ポケベルの時代を象徴する現象として1993年の緒形拳裕木奈江のテレビドラマ『ポケベルが鳴らなくて』をよくあげられるが、当時はまだ数字によるメッセージしかできない時代であり、ポケベル時代のピークは1995年にカナが送れるようになった次の年の1996年である。当時送ることができる文字数はうろ覚えだが、24byte=全角12文字程度ではなかっただろうか。
ポケベルのブームとソーシャルという功績

ポケベルで文字を送るためにはポケベルコード一覧表を見ながら電話機の数字キーで入力する必要があり、ポケベルユーザーはみんなこのコード一覧を持ち歩いていた。これを記憶して公衆電話などで数字キーを高速でプッシュしている猛者を当時街中でよく見かけたものだ。

このテキストを送るタイプのポケベルで彼女とメッセージをやりとりしている時に僕は例のディスコミュニケーションを体験する。と書くと大げさなのだが誰もが一度は経験しているようなことである。

「オコッテルノ?」
「ナンデ?」
「ナンカ ツメタイ」
「オコッテナイヨ」
(以降ループ)

・・・自分で書きながらもだんだんイライラしてくるのだが(笑)こういった男女によくあるやりとりだ。これを回避するにはポケベルコード一覧にある「♡」を使えさえすればいい。

「オコッテルノ?」
「オコッテナイヨ♡」

以上、終了である。どんなメッセージにも語尾に「♡」さえ付けておけば、まず間違いない。

ポケベルの「♡」こそがデジタルコミュニケーションにおける絵文字のルーツなのである。デジタルのテキストコミュニケーションに感情情報を付加することが絵文字の役割であり、絵文字によってクールでもホットでもない、ウォームコミュニケーションという新しい形態のコミュニケーションが生まれたといえよう。


ドラマと同名の主題歌がオープニングでしたね。

1994年の就職活動 後編

1994年夏は観測史上最高の猛暑となり、風呂もエアコンもない茹だるようなアパートに住む栗田のヒットポイントを根こそぎ奪っていった。追い打ちをかけるように企業のお祈り攻撃によってマジックポイントまで奪われ、つねにステータスウインドウがオレンジな状態での就活を余儀なくされた。唯一の救いは当時発売されたばかりの形状記憶シャツによってクソ暑い部屋でアイロンがけしなくてよいことぐらいである。

就職協定によって7月1日まで会社説明会をしてはいけないことになっているので、当面の就職活動はOB訪問だった。前回、三流私大に青田買いは縁がないと前回書いたが、それでもNTTをはじめ一定規模の学生を採用する企業からは多少のお声掛けがあった。お祈りばかりだったが。そうこうするうちに7月に入って会社説明会が始まり、就活が(表面上は)本格化するわけだが、大半の学生はOB訪問という裏門からすでに内々定を取ってしまっているため、栗田としては狭き表門をなんとかしてくぐり抜けるしかなかった。このタイミングで放映されていた、就職内定して夏休みをエンジョイする学生を描いた月9ドラマの筒井道隆主演『君といた夏』が焦る気持ちにさらに拍車をかける。

当時、移動体通信業界のリーディングカンパニーはドコモではなくIDO(現KDDI)だった。オッサン向けに宅麻伸を起用して島耕作のCMをしているドコモよりもまだ20代だった安田成美のCMのIDOの方がスタイリッシュなイメージだったし、日本独自のHiCAP方式のムーバよりも北米標準のAMPS方式のタックスミニモの方が将来性があるように感じられたこともあって第一志望はIDOだった。IDOは他社よりも会社説明会が早く、品川のコクヨホールで行われた。ただSPIの結果がよくなかったのかIDOから次のステップへの連絡が来ることはなく、早々に栗田の第一志望への道は潰えた。

ドコモの会社説明会は今は亡き虎ノ門パストラルで行われた。神谷町から虎ノ門パストラルに向かおうとして何をどう勘違いしたのか逆方向の御成門まで下ってしまい、もし間違いにそこで気づかずしかもあの坂道を全速力で走っていなければ、会社説明会には間違いなく遅刻していた。瀬尾公治のマンガだとこういうタイミングで女の子に遭遇するはずなのだがリアルなのでそういうことは起きない。ただ人生の別ルートへのフラグを危うく立てそうになったことだけは間違いなかった。

SPIを無事に通過し、1次面接は若手社員、2次面接は先日までドコモの取締役常務執行役員であった田中隆さんと、ともに1対1の面接だった。田中さんは非常に感じがよい方で話のフィーリングも合い、自分の中でドコモの印象がかなり上がった。今や採用する側だから分かるが、就活は採用側と学生とのフィーリング次第というのは今も昔も変わらない。携帯電話もインターネットもない当時、就活における必需品は留守番電話で、留守電のメッセージを聞いて企業に折り返し電話をかけて連絡を取っていた。ドコモの保留音は当時ポケベルのCMソングだった久宝留理子の『早くしてよ』だったのだが、この歌のサビの「早くしてよ。何してるのよ。何様のつもりなの!」という歌詞が受話器から聞こえるたびに、そんなユルいドコモが好きになった。今なら間違いなくソーシャル上で炎上しそうな話ではある。

ドコモの最終面接はセガの2次面接と同日だった。セガで面接までに1時間30分以上待たされてしまい、やむを得ずセガの2次面接を辞退してドコモの最終面接に向かった。ドコモの最終面接は役員面接で1対6。どんな役員の方がいらしたのか今となっては全く覚えていないが、1人ずっとニコニコ笑顔を崩さない役員の方がいらしてそのおかげでかなりリラックスできたことと、「実家に帰らず東京で就職されても大丈夫なのですか」という質問に「故郷は遠きにありて思ふものですから」と答えたことだけはよく覚えている。

結局、遅刻しそうだった会社説明会から2週間足らずでドコモから内定をもらうことができ、栗田青年の就活は幕を閉じた。めんどくさいのでドコモと書いているが当時はNTT移動通信網株式会社という社名で、家族も親せきも周りの友達もNTTの関連会社に入ったぐらいの認識しかないぐらいマイナーな会社だった。個人的には「網」の部分が結構気に入っていたが。

ちなみにこの年のドコモ(中央)の新卒採用200名に対して会社説明会組はわずか10名だった。

1994年の就職活動 前編

1994年春。栗田青年は大量のハガキを書いていた。ハガキ職人だったわけではない。30代後半以上の方はお分かりだと思うが、当時は企業にハガキを送って資料請求し、応募書類を取り寄せた上でエントリーするというのが一般的な就活の姿だった。リクナビマイナビといった就活サイトはもちろん存在しないが、各企業に送るためのハガキセットという通販のカタログのように分厚い本がリクルートや毎日から大学生の自宅に届いていたものだ。

この年就活する1972年生まれというのは団塊ジュニア世代であり、日本の人口ピラミッドにおいて突出した存在感を誇っている世代であり、いわゆる厳しい受験戦争を戦った世代なのである。そんなつねに競争にさらされる世代の運命か、就活においてもバブル崩壊後の就職氷河期に放り出されてしまうのであるが、彼はよく言えばポジティブ、悪く言っても能天気な青年なので自分がそんな大変な状況だとは深刻に考えてはおらず、ただ「毎日大量のハガキを書くのしんどい」と愚痴りながら大量のハガキと格闘していた。「汚い字や修正液を使ったものは悪印象」という手書き時代のジンクスもあり、ハガキ1枚履歴書1枚にかなりの時間がかかったものであるが、そんな努力はほとんど意味がないということは大人になってからでないと分からない。

1994年は就職協定が廃止になる直前であり、7月1日より前の就職活動というのが禁止されていた時代だった。就職協定というのは、企業側が優秀な学生を早期確保するために就職活動を早めると学生が学業に専念できなくなるという学校側の都合により、就職活動の開始を一律にしようという目的で企業と大学間で結ばれた自主的な協定である。制定は1952年と相当古い。とはいえ就職協定を破り抜け駆けで優秀な学生を採用する、いわゆる「青田買い」というのが通例で、優秀な学生を青田買いで確保した企業はその学生が他社に流れないように学生を物理的に「拘束する」ということが現実的には横行していた。「拘束」と言うと聞こえが悪いが、バブル期はそれが旅行だったりディズニーランドだったりとオイシイ思いをした学生が多かったと聞く。

ハガキを書いて資料請求をして会社説明会にエントリーする、というのはいわば合法的な表門からの就活であり、会社説明会の開始が7月1日以降というスケジュールということもあって、だいたい2月3月頃からハガキを書き始めるのが一般的で今と比べるとずいぶんノンビリしていた。とはいえ裏口の就活であるOB訪問は4月くらいから始まって就職活動解禁の7月1日前には内々定が出る、という裏口ゆえに全くの別スケジュールなのだが、三流私大の栗田青年には縁もゆかりもないことであった。裏口でエントリーできる学生は企業にコネのある有名ゼミか一流大学の学生にしか門戸が開かれていなかったからだ。

リクナビマイナビもない時代、ハガキも履歴書も全て手書きゆえに時間もかかり気軽に大量にはエントリーできないので、今以上に業界・業種を絞るのが一般的だった。栗田青年の第一希望は移動体通信業界。携帯電話はかなり高額で全く普及していなかったが、彼はたまたま大学時代でバイトをしていた四谷大塚という中学受験塾で携帯電話を使う機会があり、その将来性に早くから着目していた。なんて言えば聞こえがいいが便利でスゴイものだからというシンプルな理由だけが志望理由であり、それでもその実感を普通の人よりもほんの少し早く得ることができたのは今から考えればラッキーだったとしか言いようがない。四谷大塚では中学入試の合格発表に立ち会って本部に塾の合格者を報告する、というとても楽チンでおいしいバイトがあり、それには携帯電話が貸与されていた。公衆電話に長蛇の列ができる中、合格発表の掲示板を見ながら携帯電話で直接本部に発表者を伝えるという体験は彼に大きな驚きをもたらした。「何だこれすげー便利!」その驚きは感動的ですらあった。「今はお金もかかるし大きくて重たいけど、10年ぐらいしたら安くて小さくなってみんな持つようになるんじゃない?」実際には10年もかからず携帯電話は普及してしまうのだが、1993年春にこの体験をしていなければ彼の人生は違う意味で大きく変わっていたことだろう。

移動体通信業界といえど、1994年に開業していたのは日本移動通信IDO)とNTT移動通信網(DoCoMo)の2社だけ。それに1995年の開業を控えて新卒一期目を募集していたTu-Kaデジタルホン、併せて4社が就職活動先となった。もちろん4社だけでというのは少ない気がしてNTT、日本国際通信ITJ)、国際電信電話KDD)といった固定通信の会社も加えた。他にはプレイステーションとサターンという次世代ゲームハードの発売を1994年暮れに控えたゲームプラットフォーマーがおもしろそうだと感じていた。彼がゲーマーだったからだ。最後に父と同じ保険業界。全く興味の薄い業界ではあったが、父の仕事と同じ業界を受けるというのは彼にとって親孝行のような感覚だったのではないだろうか。

就職氷河期という時代の中、栗田青年の就活がはじまる。


バブル期の就活といえば主題歌の槇原敬之『どんなときも』がヒットした『就職戦線異状なし』が懐かしい。半沢直樹が産業中央銀行に入社したのもこの頃。ただ1991年映画公開時はすでにバブルがはじけていた。

絵文字の話を書こうと思ったのに気づいたらなんだか壮大なことに・・・。

今さら絵文字について書こうと思った訳。

近頃「絵文字」が流行ってるらしい、なんて書くと「スタンプ全盛の時代に何を今さら!?」と言われそうなぐらい日本ではちょっと廃れてきてる感のある絵文字だが、流行っているのは日本ではなく海外。「emoji」が流行ってるらしいと書く方が正確だろう。昨年オックスフォード辞典に絵文字が単語として登録されたこともあって、すでに「emoji」は世界に通用する日本語のひとつになっている。

『絵文字(emoji)』がオックスフォード辞典に登録される | ハフポスト

絵文字は2009年のUnicode6.0よりUnicodeに採用されたことでiPhoneAndroidなど世界中のOSに標準搭載されるようになったのだが、スマートフォンの普及が進んだことで日本から遅れること10年、世界中に普及したようだ。アメリカでは2011年頃から絵文字が浸透し始めたようで、昨年には米ビルボードシングルチャートで1位になったケイティペリー『ロアー』のミュージックビデオが絵文字だらけで話題になった。

今年に入ってから頻繁に僕のtwitterやらFacebookに「○○の絵文字を作って欲しい」というリクエストが届くことも海外での絵文字人気を個人的に実感する出来事だ。今年3月には「ホットドックの絵文字を作って欲しい」という請願書がオバマ大統領と僕宛てに届けられているということがウォールストリートジャーナルで記事になった。

ホットドッグの絵文字を―米国で請願書

僕宛に直接リクエストされてもそんな簡単に実現できるわけないのだが、「いくらか遠回りの方法でホットドッグの絵文字への願いを追求している」と文中で察せられているのが趣深い。

6月にはUinicode7.0の公開で絵文字が250種類追加されることが発表されたり、海外で絵文字の新サービスがはじまったりとこの動きはまだまだ何年か続きそうな気がする。昨年、僕が海外メディアから絵文字に関するインタビューを受けた記事が海外でかなり反響があったみたいで、それをきっかけに海外から絵文字に関する取材申し込みも最近多い。

How emoji conquered the world | The Verge

Jeff Blangdonさんによるこの記事は、デザインも含めて本文もおもしろいのだが、コメント欄が絵文字や顔文字であふれているのが海外の絵文字熱を感じられて一見の価値がある。

僕が絵文字の開発に携わったのは1998年春、もう16年も前のこと。絵文字の開発は僕が発案し上司の松永真理さんの理解と協力を得て進めたプロジェクトだったが、基本的に1人プロジェクトだったので経緯やエピソードなどがiモードと違って体系的に残されていない。これだけ世界で絵文字が使われるようになった今、絵文字のルーツをパブリックドメインに残しておかないと何だかもったいない気がして、自分でも忘れないうちに絵文字に関するあれこれを綴っていきたいと思う。