大人になってしまった僕が見た『天気の子』。

『天気の子』を見た。15年以上前から新海作品を見続けている監督と同世代のファンとしては、見ないという選択肢はない。かつどんな作品であっても受け入れる覚悟で見る訓練を受けている。前作の大ヒットでおそらく予算やリソースについて苦労することはないだろうから、存分に監督の描きたいものを描いたのであれば、それだけで自分事のようにうれしい。

 

IMAXで見る新海作品は素晴らしかった。絶対見るならIMAXをオススメする。IMAXで見るべき。見ろ。映像への没入感がすごい。スクリーンが天地方向に長いので、天気の描写の美しさを感じるのにとても向いていると思う。あっという間の2時間だった。

 

だが、残念ながら僕にとって『天気の子』は、主人公や登場人物に全く感情移入することなく、ゆえに主観的でなく客観的にしか見ることができず、自分ごと化できない作品だった。物語を全く感情移入なしで見て、感動したり思い入れを持つことは難しい。だから僕は『天気の子』という作品を好きになれなかった。

 

だからそれはどうしてなのか?ということを考察する。

 

批評=批判と短絡的に受け取る人が多いのであえて前置きするが、『天気の子』が自分にとって好きな作品ではなかったからといって、作品をディスるつもりは全くないし、作品としておもしろくないと言っているわけでもない。新海ファンとしてこのクオリティの作品を大画面で見ることができるのはそれだけで幸せなことである。つまらない作品というのは、映画を見ながら現在の時刻が気になって時計を見てしまうような作品だし、見終わった後に誰かと語り合いたくなったり、こういう考察をしたくなる作品がつまらないわけがない。好きだと思えなかったのに、見た日はいろいろと考え込んでしまって4時まで寝られなかった。

 

この考察そのものも誰かに何かを訴えたいというよりも、自分の考えを言語化して整理することが目的である。

 

以下、ネタバレ前提。

 

まず考察の前提として、今作における新海監督の意図や考えを確認する。

 

www3.nhk.or.jp

 

インタビューから以下の2点に注目した。

 

  • 作品のターゲット

こういうものを心底強く求めているのは、やっぱり若い人たちだと思うんですよ。娯楽全般が成長に必要なのは若者だと思います。

それをいちばん必要としてくれる人たちに、なるべくいちばん必要なものを届けたいという気持ちは強いので。まずは10代20代、思春期を抱えた人たちに向けたいなと。

そのうえで、そうじゃない人たちにとっても響くものをたくさん入れたいなというのはあります。

  •  作品の狙い

次に作る映画をどういうものにしようかと。

君の名は。」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないんじゃないかというふうに思いました。

君の名は。」には、それだけ人を怒らせた何かが映画の中にあったはずで、怒らせるというのは大変なエネルギーですから、何か動かしたはずなんですよね。そこにこそ、きっと自分自身に作家性のようなものがある。

あるいはもっと叱られる映画を作ることで、自分が見えなかった風景が見えるんじゃないかという気もしたんですよね。

 

僕が作品に感情移入できなかった理由として、まず自分が作品のターゲットから外れているからではないかという仮説を立てた。だが、多くのアニメ作品のターゲットはそもそも若年層であるし、主人公も10代であることが多い。新海監督の作品も多分に漏れずそうである。

 

なぜかと言えば、アニメ作品にとって少年少女の成長を描くことは大きなテーマのひとつであり、それが最も視聴者を喜ばすものであるからだ。この形式の物語はビルドゥングスロマーンと呼ばれる。ビルドゥングスロマーンは19世紀から20世紀にかけてドイツで成立したもので、少年少女がさまざまな経験と試練を経て、様々な人との関わりの中で成長し、世界と出会い、世界を知り、最終的に自分自身と向き合うことで自らの力で世界と関わっていくまでを描く物語を指す。つまり少年が大人に成長することを描く物語である。

 

ビルドゥングスロマーンが多くの人々に受け入れられるのは「成長」することが人間にとって、とても重要なことだからである。人は生まれた時からすでに人間の最大の苦しみと言われる「老」「死」に否応なく近づいている。でも、成長を感じることができれば人は未来に不幸を感じないで済む。自分の成長だけでなく、子供の成長、部下や後輩の成長にも喜びを見出すことができる。成長は明るい未来への希望なのだ。

 

多くのアニメ作品がビルドゥングスロマーンの物語であるのは、そういう人間の本質に根付いている。アニメ作品はもともと若者向けの作品であるからなおさらだ。ゆえに、若者向けの作品だからといって決して大人が感情移入できないというわけではない。新海監督はむしろデビュー作の『ほしのこえ』から一貫してビルドゥングスロマーンの物語を描いてきていると思う。

 

だとしたら、『天気の子』は少年少女が主人公だがビルドゥングスロマーンの物語ではないのではないだろうか。というのも、帆高や陽菜が経験や試練を経て成長したと感じられないからだ。もちろん成長していないわけなどないのだが、それを観客に明確に感じさせるセリフやエピソード、描写に著しく欠けている。もともと新海監督の作品は大人が登場したり、大人が主人公たちと関わることが極端に少ない。その代わりに主人公の苦悩や心の内がモノローグで語られており、主人公が自身で成長しなければ思っている意志が感じられた。さらに前作『君の名は。』では主人公たちが問題解決のために大人や仲間たちと積極的に関わっていく姿も見られた。ところが『天気の子』で帆高に関わる大人は須賀と夏美だけとなり、物理的な支援は得られていたものの、帆高が彼らと関わることで内面的な成長を遂げたことを描くようなエピソードがあまりないし、彼らはそもそも目指すべき大人のロールモデルではないだろう。

 

帆高は確かに自らの意志で島を出て東京にやってきた。陽菜をチンピラから救ったのも彼自身の決断と行動力である。ただ、彼が能動的に思考したり苦悩したりする形跡がない。彼は自分自身と対話して物事を考えない。困ったらすぐYahoo!知恵袋に聞く、という描写もそれを象徴的に表しているのだが、晴れ女の力を使い過ぎると陽菜にとってよくない、ということを知りながら、彼女の「晴れてほしい?」という問いに「うん」と答えてしまうところは最も明示的である。彼は反射神経と行動力だけで生きている。彼女を救うために確かに彼は決断し行動したが、それも環境に追い込まれた結果、受動的に反射神経で行動していたようにしか思えない。そこに成長しようとする姿は見られない。小学生のようだ。

 

彼のセリフで明示的なのが、ラブホテルでの『神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。』というモノローグ。「僕たちからこれ以上何も奪わないでください」なら分かる。でも「足す」ことをあえて拒否することは僕には衝撃だった。彼は素直な子でちゃんした教育を受けている。ちゃんした教育を受けずに雑誌の記事を書けるわけがない。彼が島を飛び出した理由は「晴れを追って東京に来た」という程度しか描かれておらず、親や友達との関係性における暗さはない。高校で孤立している感じも卒業式のシーンからは感じられなかった。もし孤立していたら告白されるとは想像しないだろう。もうひとつ衝撃だったのは、東京に「大学生」として戻ってきたこと。学費は親持ちなのだろう。親と決別して一人で東京で生きていくというような覚悟は示されていないし、だとすれば実は親とそれほど関係性は悪くなかったのではないか。

 

「成長」についてはまだ書きたいことがあるのだが、それは最後において、次は作品の狙いである「より叱られる、批判される映画」という点について書きたい。僕が思うこの映画で賛否が分かれる部分としては下記の2点だと感じた。ネットでもよく語られている点である。

 ・彼女か世界という二択に対する決断とその結果 
 ・彼女を救うために主人公が行った違法行為

 

「彼女を救うか世界を救うか」という問いに対して「彼女を選び」その結果として「世界が狂った」というのが『天気の子』である。ゼロ年代エロゲやセカイ系というアプローチでは多くの人が考察しているのでここでは触れない。彼女と世界とを天秤にかけるにあたって、通常は彼女と世界との重さのバランスが取れているからこそテーマとして成立するのだが、僕は『天気の子』においてはそもそも重さのバランスが取れていないと思う。

 

この作品でいう世界とは地球や人類そのものではなく「水没し海へと還っていく東京」である。ヱヴァンゲリヲンとは世界のレベルが違う。帆高にとって東京は憧れの対象であったかもしれないが、彼にとって東京はしょせん見知らぬ土地で、そこには家族も友人も思い出もない。陽菜にとってはどうだろうか。彼女も両親をなくし、交友関係も描かれず、縛るものは弟と田端の家だけだろう。ところが田端の彼女の家は台地の上、つまり「海ではなかった東京」に建っている。(結果論ではあるが)

 

つまり世界ではなく自分たちを選んだ代償が限りなく軽いのである。これでは選択肢として成立しない。代償が大きいから、それがゆえに苦悩するからこそ重いテーマになりえるのである。そのうえで、物語ではさらに彼らへの救済措置が用意されている。「この世界はもともと狂っている」と言う須賀と、家を水没で失いながら「もともと東京は海だった」と言う立花老婦人である。さらに、東京が水没したことが彼らの決断のせいだとは誰も知らず、誰から責められることもない。行動力には定評があるが自分の頭で考えようとはしない帆高くんは反射的に決断したし、多少の負い目はあったと思うが、救済措置によって考えることを辞めただろう。

 

世界そのものに手を入れずとも、たとえば陽菜が最初に鳥居を見つけたときに母の死に目に会えなかったとか、帆高が銃によって相手を殺してしまった、殺さずとも傷づけてしまったような描写があればもう少しバランスが取れたのではないだろうか。

 

次に彼らが取った違法行為について。新海作品の違法行為といえば『空の向こう、約束の場所』では違法行為だらけだったし、『君の名は。』でも変電所爆破などがあった。ただ、それこそ緊急避難的に他の人をも救うことにつながる行為だったからこそフィクションとして気になるまでは至らなかった。

 

令和元年でははるかにコンプライアンスの意識が高まっており、『天気の子』での帆高の行動を好意的に受け取れない人もいるだろう。ただ、僕個人としては前述したとおり、そこに計画性や主体性の裏付けがないことに対する嫌悪感の方が強かった。彼女を守るために親や須賀と対話する道を選ぶわけでもなく、ノープランで逃げ続けたこと。銃を発砲したことに対する心の軽さ。何もかも子供の行動でしかない。

 

僕は何も失わず大人になろうともしない彼らにイライラしたんだと思う。大人になってしまった僕はそこに感情移入できなかったのだ。大人でありながら彼らのロールモデルたろうとしなかった須賀や夏美にもである。

 

でもまさにこれこそが、新海監督が目指した「より叱られる、批判される映画」の本質なのかもしれない。

 

ちょうどこのタイミングでこういうものを見た。

togetter.com

 

「飢えてなければ、ときどき贅沢ができれば、それでよい」

ラブホテルのインスタント食品で幸せだと言っていた彼らにつながる。

 

新海監督はいわゆる従来のような概念としての若者のためではなく、今を生きるリアルの若者のためにこの作品を作ったのではないだろうか。ビルドゥングスロマーンは資本主義と民主主義によって世界がまさに成長していくときに生まれた。今の日本はおそらく過去のどの時代どの国よりも豊かで住みやすいはずなのに、少子高齢化によって「成長」を感じることができないために漠然と暗い雰囲気に包まれている。もはやビルドゥングスロマーンの物語では若者を救えないのかもしれない。この作品はそんな今の日本の若者たちに「僕たちはきっと大丈夫だ」と伝えることで元気づけたかったのではないかと思う。

 

僕が生きている間に世の中はめまぐるしく変わった。世の中のシステムやルールが生まれていく場に幸運にも立ち会えたから、システムもルールも変えられることを知っている。システムやルールは目的の最適化の手段として必要なもので、環境や目的が変わればシステムやルールも変えていかなければならないものだと分かっている。でもおそらく、システムやルールは変えられないもの、変えてはいけないものと思う人は少なくない。特に若者はそうだろう。

 

『天気の子』を見て、多くの若者が感動したり、元気づけられればいいなと思う。閉塞感に覆われた世界で、傷つくことに恐れる若者の光になればいい。祈りになればいい。

 

でも、若者が目指すべき大人のいない世界はとても寂しいと思う。人間が、身体的な成長は止まっても、内面的な成長はいくつになってもできるように、経済的な成長が止まっても幸せに向かうために成長することはきっとできる。大人になってしまった僕は、若者や子どもたちのために自分にはこの世界に何ができるのか、考えながら生きていかないといけない。そして自分にできることをやろう。少なくとも僕はこの映画を見てそう受け取った。