サウナ初心者のためのサウナの入り方。

はじめに

ストレス解消と疲労回復にバツグンの効果があり、なんといっても合法的に気持ちよく幸せになれる、そんな素晴らしいサウナですが、サウナが苦手だったり敬遠している人も多いみたいです。確かにサウナで気持ちよくなるためにはコツがいる。スキル「サウナ入り方のコツ」を習得する必要があります。

 

サウナ施設がこれからもにぎわって、新しいサウナ施設が増えていくためにもサウナ人口が増えていくことは大切なことなので、少しでも多くの人にサウナの素晴らしさを知っていただくために、特に初心者に向けたサウナの入り方のコツをお伝えしていきたいと思います。

 

サウナの入り方にとって大切なこと

サウナといえばよく使われるワードである「ととのう」。これはとりあえず忘れてください。サウナにうまく入ることができるようになればいずれ体験できるはずです。

 

体温には深部体温というものがあります。体の内部の温度のことです。サウナでは深部体温を上げることを目指してください。ただ、1回のサウナで深部温度をいきなり上げることはできません。なぜなら、サウナでは深部体温が上がるよりも先に、体の表面の皮膚温の方が高くなり、特に頭部は熱に弱いということもあってツラくなってしまい、長時間サウナに入り続けることができないからです。

 

そこで水風呂が必要になります。茹でた野菜の粗熱を取るために水につけるように、皮膚温を下げるために水風呂に入ります。皮膚温を下げたら休憩してまたサウナに入ります。サウナと水風呂を繰り返すことで、体の表面の皮膚温を下げながら深部体温を少しづつ上げていく、これがサウナの入り方としていちばん大切なことです。

 

サウナの種類の話

サウナには乾式サウナと湿式サウナの2種類があります。※ミストサウナは今回除外

日本でいちばん普及しているのが乾式サウナ。銭湯や多くの温浴施設に導入されていて、一般の人がサウナだと広く認識しているのが乾式サウナです。乾式サウナは文字通りサウナ室が乾燥していて室温が高いサウナのこと。これとは逆に湿度が高いサウナが湿式サウナ。熱したサウナストーンに水をかけて水蒸気を起こすことで湿度を上げているサウナのことで、室温が乾式サウナに比べて低いのも特徴です。

 

気候で想像していただくと分かりやすいと思うのですが、同じ気温でも湿度が高い方が体感温度が高く汗をかきます。乾式サウナは室温が100℃前後かつ湿度も低いため、汗をかくよりも先にすぐ皮膚温が高くなってしまい、サウナ室に長く入ることができません。サウナが熱くてつらいという経験を持っている人はだいたい乾式サウナの経験だと思います。逆に湿式サウナは室温が80℃前後かつ湿度も高いため、汗もすぐ出ますし、乾式サウナよりも長く入ることができます。もうお分かりだと思うのですが、サウナの入り方のコツをつかむまでは湿式サウナを選んで入ることを強くオススメします。

 

湿式サウナの探し方

乾式サウナはどこにでもありますが、湿式サウナはそれほど多くないので自身で探す必要があります。その探し方をお伝えします。

 

まずはサウナ検索サイトであるサウナイキタイにアクセス。

sauna-ikitai.com

 

「特徴から探す」で「ロウリュ」にチェックして検索。

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前述しましたが、熱したサウナストーンに水をかけて蒸気を発生させることをロウリュと言います。

 

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その後地域で絞りこんでください。サウナ室の温度が90℃以下の施設が初心者にはオススメです。(ただし同じ施設に複数のサウナがある場合一つの室温しか表示されていないので詳細を見た方が正確)

 

サウナ室のコツ

サウナ室は上部上段に行くほど室温が高くなります。座った状態では頭部が最も熱の影響を受けるとともに頭は熱に弱いので、サウナ室に長く入るためにケアが必要です。いちばんオススメなのはサウナハットを使うことです。

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僕が愛用しているニコニコテレビちゃんサウナハット

 サウナハットは熱を通しにくく濡れにくいフェルト生地のものがオススメです。サウナ室に無理なく長く入れるようになるので重宝します。今ではいろいろな種類のサウナハットを売っているので検索すればすぐ見つかります。とりあえずお金が惜しい人はタオルで頭を包むとよいと思います。また頭とは逆にいちばん下にある足がサウナ室の構造上、最も温まりにくくなります。あぐらを組んだり片足だけ上げたり、足を温める工夫もするとよいです。

 

サウナ室で汗をダラダラと流して汗だくになっている人がいますが、汗はその都度タオルで拭きとった方が汗腺を防がないのでトータルで汗がよく出ます。もちろんサウナ室に入る前によく頭や体を洗って毛穴の汚れを取っておくことも重要。ただし、サウナ室で汗だくのタオルは絞るのはマナーとしてNGなので気をつけましょう。

 

サウナに入る時間は体調や施設によっても異なるので一概には言えません。ただ冒頭でお伝えした通りサウナは深部温度を高くするのが目的ですので、体が温まっていない1回目をいちばん長く、体が温まっていくにつれて入る時間を短くしていくのがよいと思います。とにかくサウナ室で必要以上のガマンと無理は決してしないでください。ツラくなる直前ぐらいに出ましょう。

 

深部体温を上げるためにも、サウナ室では腹式呼吸をすることをオススメします。肺が温まることが深部体温の上昇を促進します。初心者にはちょっとハードルが高いかもしれないのでできる人だけでいいです。  

 

水風呂のコツ

深部体温を温めるための障害となる皮膚温の上昇を抑えるために水風呂に入ると前述しました。深部体温が高くなると水風呂が全く苦にならなくなります。逆に水風呂が冷たくてツラいと感じるということは深部体温が上がっておらず表面だけが熱くなっている状態だと考えてください。そんな場合はシャワーや水のかけ湯だけで構いません。体が温まって入れるようになるまで水風呂に無理して入る必要はありません。また水風呂に入る場合でも1回目の水風呂は数十秒浸かって出るだけで十分だと思います。初心者にとって最初の水風呂の冷たさこそがいちばんのハードルだと思うので、あくまで体表面の粗熱が取れれば大丈夫だと覚えてください。

 

身体の手と足はもっとも冷えやすく、特に手首と足首は細くなっているだけにここが冷えると体温を下げます。手と足は水風呂から外に出す、を試してみてください。

 

湿式サウナで頭を守って数回体を温めた後、つまり深部体温が上がった状態での水風呂は嘘みたいに気持ちよくなっているはずです。ただここで調子に乗って水風呂に長く入っているとせっかく上げた深部体温を下げることになってしまうので、水風呂の入りすぎには注意ですよ。僕は長くても2分は入りません。

 

水風呂に入る前にかけ湯をすることはサウナにとっていちばん大切なマナーですが、水ではなくお湯でかけ湯をするのがオススメです。これによって体を無駄に冷やすことがなくなります。また水風呂が気持ちよく感じられる状態になったら、水風呂を出た後で、頭や首に水をかけて冷やすことをオススメします。サウナで手と足は冷やすな!頭は冷やせ!理由は後ほど。

 

休憩のコツ

サウナはサウナ室→水風呂→休憩のローテーションで行い、これをセットと言います。水風呂から出たら必ず休憩しましょう。水風呂を出てすぐにサウナに入る人がいますが、休憩しないとサウナの真のよさには気づけません。施設にあるや椅子や寝椅子で最低でも5分はゆっくりしましょう。

 

休憩の前にはタオルで全身よく拭きましょう。体についた水分をふき取ることで、体が冷えるのを防ぎます。繰り返しになりますが、サウナは深部体温を上げるのが目的です。せっかく上がった熱を下げないように気をつけるだけで全然効果が変わります。

 

サウナの気持ちよさの理由は医学的には解明されていないと聞きます。あくまで自身の体験から以下のような仮説を立てています。

サウナの熱によって血管が拡張する。水風呂によって拡張された血管が収縮する。休憩の安静によって血液が体中をめぐる。全身の毛細血管にいたるまで血液が酸素とともに届くことで心地よさを感じる。特に脳に大量の酸素が運ばれることで気持ちよくなる。

僕の平常時の血圧は120ですが、サウナ後は100ぐらいになるので血管が拡張していることがよく分かります。スマートウォッチで計測したところ、サウナ室で心拍数は120ぐらいになり、休憩時には70台まで下がります。運動しているのに近い効果があるのではないでしょうか。またお風呂は水圧が体に負担をかけますが、サウナは水風呂に短時間入るとはいえお風呂に比べて体への負担を少なく体を温められるというメリットもあります。

 

休憩時も腹式呼吸でゆっくりと呼吸を行いリラックスしましょう。呼吸を意識することで、より酸素が全身をくまなく回り、気持ちよくなります。ディープリラックスした状態になるはずです。また、脳に酸素を送るためには頭や首の血管を収縮させた方が効果的です。先ほど、水風呂で頭を冷やしましょう、と書いたのはこのためです。

 

サウナ→水風呂→休憩のセットを繰り返すことで、深部体温を上げるとともに全身にくまなく血液を巡らせます。回数は体調や気温にもよりますが、水風呂に気持ちよく入れるようになるまで、というのがひとつの目安になるでしょう。3セットから5セットだと思います。

 

血液の話をしたのでもう1つ。食後は消化のために胃腸に血液が集まります。そのため、満腹時のサウナは消化を悪くするのでオススメできません。サウナの後はものすごくごはんが美味しいので、むしろ空腹時に入るのがオススメです。

 

最後に

ここまで書いたことを実践していただければサウナの入り方のコツは習得できるはずです。最後に当たり前ですが最も大切なことを。水分をしっかり補給しましょう!脱水状態になるのがいちばん危険です。サウナ室に入る前、入った後には必ず水分を取ってくださいね。またお酒の後のサウナはさらに脱水状態になりやすく体に悪いので厳禁です。

 

とりあえず忘れていただいた「ととのう」についてですが、サウナから帰ってまたすぐサウナに行きたくなったら、それが「ととのった」証だと思います。

 

夏は気温が高いので体が冷えにくく、サウナをするには最適な季節です。サウナ楽しんでくださいね!

大人になってしまった僕が見た『天気の子』。

『天気の子』を見た。15年以上前から新海作品を見続けている監督と同世代のファンとしては、見ないという選択肢はない。かつどんな作品であっても受け入れる覚悟で見る訓練を受けている。前作の大ヒットでおそらく予算やリソースについて苦労することはないだろうから、存分に監督の描きたいものを描いたのであれば、それだけで自分事のようにうれしい。

 

IMAXで見る新海作品は素晴らしかった。絶対見るならIMAXをオススメする。IMAXで見るべき。見ろ。映像への没入感がすごい。スクリーンが天地方向に長いので、天気の描写の美しさを感じるのにとても向いていると思う。あっという間の2時間だった。

 

だが、残念ながら僕にとって『天気の子』は、主人公や登場人物に全く感情移入することなく、ゆえに主観的でなく客観的にしか見ることができず、自分ごと化できない作品だった。物語を全く感情移入なしで見て、感動したり思い入れを持つことは難しい。だから僕は『天気の子』という作品を好きになれなかった。

 

だからそれはどうしてなのか?ということを考察する。

 

批評=批判と短絡的に受け取る人が多いのであえて前置きするが、『天気の子』が自分にとって好きな作品ではなかったからといって、作品をディスるつもりは全くないし、作品としておもしろくないと言っているわけでもない。新海ファンとしてこのクオリティの作品を大画面で見ることができるのはそれだけで幸せなことである。つまらない作品というのは、映画を見ながら現在の時刻が気になって時計を見てしまうような作品だし、見終わった後に誰かと語り合いたくなったり、こういう考察をしたくなる作品がつまらないわけがない。好きだと思えなかったのに、見た日はいろいろと考え込んでしまって4時まで寝られなかった。

 

この考察そのものも誰かに何かを訴えたいというよりも、自分の考えを言語化して整理することが目的である。

 

以下、ネタバレ前提。

 

まず考察の前提として、今作における新海監督の意図や考えを確認する。

 

www3.nhk.or.jp

 

インタビューから以下の2点に注目した。

 

  • 作品のターゲット

こういうものを心底強く求めているのは、やっぱり若い人たちだと思うんですよ。娯楽全般が成長に必要なのは若者だと思います。

それをいちばん必要としてくれる人たちに、なるべくいちばん必要なものを届けたいという気持ちは強いので。まずは10代20代、思春期を抱えた人たちに向けたいなと。

そのうえで、そうじゃない人たちにとっても響くものをたくさん入れたいなというのはあります。

  •  作品の狙い

次に作る映画をどういうものにしようかと。

君の名は。」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないんじゃないかというふうに思いました。

君の名は。」には、それだけ人を怒らせた何かが映画の中にあったはずで、怒らせるというのは大変なエネルギーですから、何か動かしたはずなんですよね。そこにこそ、きっと自分自身に作家性のようなものがある。

あるいはもっと叱られる映画を作ることで、自分が見えなかった風景が見えるんじゃないかという気もしたんですよね。

 

僕が作品に感情移入できなかった理由として、まず自分が作品のターゲットから外れているからではないかという仮説を立てた。だが、多くのアニメ作品のターゲットはそもそも若年層であるし、主人公も10代であることが多い。新海監督の作品も多分に漏れずそうである。

 

なぜかと言えば、アニメ作品にとって少年少女の成長を描くことは大きなテーマのひとつであり、それが最も視聴者を喜ばすものであるからだ。この形式の物語はビルドゥングスロマーンと呼ばれる。ビルドゥングスロマーンは19世紀から20世紀にかけてドイツで成立したもので、少年少女がさまざまな経験と試練を経て、様々な人との関わりの中で成長し、世界と出会い、世界を知り、最終的に自分自身と向き合うことで自らの力で世界と関わっていくまでを描く物語を指す。つまり少年が大人に成長することを描く物語である。

 

ビルドゥングスロマーンが多くの人々に受け入れられるのは「成長」することが人間にとって、とても重要なことだからである。人は生まれた時からすでに人間の最大の苦しみと言われる「老」「死」に否応なく近づいている。でも、成長を感じることができれば人は未来に不幸を感じないで済む。自分の成長だけでなく、子供の成長、部下や後輩の成長にも喜びを見出すことができる。成長は明るい未来への希望なのだ。

 

多くのアニメ作品がビルドゥングスロマーンの物語であるのは、そういう人間の本質に根付いている。アニメ作品はもともと若者向けの作品であるからなおさらだ。ゆえに、若者向けの作品だからといって決して大人が感情移入できないというわけではない。新海監督はむしろデビュー作の『ほしのこえ』から一貫してビルドゥングスロマーンの物語を描いてきていると思う。

 

だとしたら、『天気の子』は少年少女が主人公だがビルドゥングスロマーンの物語ではないのではないだろうか。というのも、帆高や陽菜が経験や試練を経て成長したと感じられないからだ。もちろん成長していないわけなどないのだが、それを観客に明確に感じさせるセリフやエピソード、描写に著しく欠けている。もともと新海監督の作品は大人が登場したり、大人が主人公たちと関わることが極端に少ない。その代わりに主人公の苦悩や心の内がモノローグで語られており、主人公が自身で成長しなければ思っている意志が感じられた。さらに前作『君の名は。』では主人公たちが問題解決のために大人や仲間たちと積極的に関わっていく姿も見られた。ところが『天気の子』で帆高に関わる大人は須賀と夏美だけとなり、物理的な支援は得られていたものの、帆高が彼らと関わることで内面的な成長を遂げたことを描くようなエピソードがあまりないし、彼らはそもそも目指すべき大人のロールモデルではないだろう。

 

帆高は確かに自らの意志で島を出て東京にやってきた。陽菜をチンピラから救ったのも彼自身の決断と行動力である。ただ、彼が能動的に思考したり苦悩したりする形跡がない。彼は自分自身と対話して物事を考えない。困ったらすぐYahoo!知恵袋に聞く、という描写もそれを象徴的に表しているのだが、晴れ女の力を使い過ぎると陽菜にとってよくない、ということを知りながら、彼女の「晴れてほしい?」という問いに「うん」と答えてしまうところは最も明示的である。彼は反射神経と行動力だけで生きている。彼女を救うために確かに彼は決断し行動したが、それも環境に追い込まれた結果、受動的に反射神経で行動していたようにしか思えない。そこに成長しようとする姿は見られない。小学生のようだ。

 

彼のセリフで明示的なのが、ラブホテルでの『神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。』というモノローグ。「僕たちからこれ以上何も奪わないでください」なら分かる。でも「足す」ことをあえて拒否することは僕には衝撃だった。彼は素直な子でちゃんした教育を受けている。ちゃんした教育を受けずに雑誌の記事を書けるわけがない。彼が島を飛び出した理由は「晴れを追って東京に来た」という程度しか描かれておらず、親や友達との関係性における暗さはない。高校で孤立している感じも卒業式のシーンからは感じられなかった。もし孤立していたら告白されるとは想像しないだろう。もうひとつ衝撃だったのは、東京に「大学生」として戻ってきたこと。学費は親持ちなのだろう。親と決別して一人で東京で生きていくというような覚悟は示されていないし、だとすれば実は親とそれほど関係性は悪くなかったのではないか。

 

「成長」についてはまだ書きたいことがあるのだが、それは最後において、次は作品の狙いである「より叱られる、批判される映画」という点について書きたい。僕が思うこの映画で賛否が分かれる部分としては下記の2点だと感じた。ネットでもよく語られている点である。

 ・彼女か世界という二択に対する決断とその結果 
 ・彼女を救うために主人公が行った違法行為

 

「彼女を救うか世界を救うか」という問いに対して「彼女を選び」その結果として「世界が狂った」というのが『天気の子』である。ゼロ年代エロゲやセカイ系というアプローチでは多くの人が考察しているのでここでは触れない。彼女と世界とを天秤にかけるにあたって、通常は彼女と世界との重さのバランスが取れているからこそテーマとして成立するのだが、僕は『天気の子』においてはそもそも重さのバランスが取れていないと思う。

 

この作品でいう世界とは地球や人類そのものではなく「水没し海へと還っていく東京」である。ヱヴァンゲリヲンとは世界のレベルが違う。帆高にとって東京は憧れの対象であったかもしれないが、彼にとって東京はしょせん見知らぬ土地で、そこには家族も友人も思い出もない。陽菜にとってはどうだろうか。彼女も両親をなくし、交友関係も描かれず、縛るものは弟と田端の家だけだろう。ところが田端の彼女の家は台地の上、つまり「海ではなかった東京」に建っている。(結果論ではあるが)

 

つまり世界ではなく自分たちを選んだ代償が限りなく軽いのである。これでは選択肢として成立しない。代償が大きいから、それがゆえに苦悩するからこそ重いテーマになりえるのである。そのうえで、物語ではさらに彼らへの救済措置が用意されている。「この世界はもともと狂っている」と言う須賀と、家を水没で失いながら「もともと東京は海だった」と言う立花老婦人である。さらに、東京が水没したことが彼らの決断のせいだとは誰も知らず、誰から責められることもない。行動力には定評があるが自分の頭で考えようとはしない帆高くんは反射的に決断したし、多少の負い目はあったと思うが、救済措置によって考えることを辞めただろう。

 

世界そのものに手を入れずとも、たとえば陽菜が最初に鳥居を見つけたときに母の死に目に会えなかったとか、帆高が銃によって相手を殺してしまった、殺さずとも傷づけてしまったような描写があればもう少しバランスが取れたのではないだろうか。

 

次に彼らが取った違法行為について。新海作品の違法行為といえば『空の向こう、約束の場所』では違法行為だらけだったし、『君の名は。』でも変電所爆破などがあった。ただ、それこそ緊急避難的に他の人をも救うことにつながる行為だったからこそフィクションとして気になるまでは至らなかった。

 

令和元年でははるかにコンプライアンスの意識が高まっており、『天気の子』での帆高の行動を好意的に受け取れない人もいるだろう。ただ、僕個人としては前述したとおり、そこに計画性や主体性の裏付けがないことに対する嫌悪感の方が強かった。彼女を守るために親や須賀と対話する道を選ぶわけでもなく、ノープランで逃げ続けたこと。銃を発砲したことに対する心の軽さ。何もかも子供の行動でしかない。

 

僕は何も失わず大人になろうともしない彼らにイライラしたんだと思う。大人になってしまった僕はそこに感情移入できなかったのだ。大人でありながら彼らのロールモデルたろうとしなかった須賀や夏美にもである。

 

でもまさにこれこそが、新海監督が目指した「より叱られる、批判される映画」の本質なのかもしれない。

 

ちょうどこのタイミングでこういうものを見た。

togetter.com

 

「飢えてなければ、ときどき贅沢ができれば、それでよい」

ラブホテルのインスタント食品で幸せだと言っていた彼らにつながる。

 

新海監督はいわゆる従来のような概念としての若者のためではなく、今を生きるリアルの若者のためにこの作品を作ったのではないだろうか。ビルドゥングスロマーンは資本主義と民主主義によって世界がまさに成長していくときに生まれた。今の日本はおそらく過去のどの時代どの国よりも豊かで住みやすいはずなのに、少子高齢化によって「成長」を感じることができないために漠然と暗い雰囲気に包まれている。もはやビルドゥングスロマーンの物語では若者を救えないのかもしれない。この作品はそんな今の日本の若者たちに「僕たちはきっと大丈夫だ」と伝えることで元気づけたかったのではないかと思う。

 

僕が生きている間に世の中はめまぐるしく変わった。世の中のシステムやルールが生まれていく場に幸運にも立ち会えたから、システムもルールも変えられることを知っている。システムやルールは目的の最適化の手段として必要なもので、環境や目的が変わればシステムやルールも変えていかなければならないものだと分かっている。でもおそらく、システムやルールは変えられないもの、変えてはいけないものと思う人は少なくない。特に若者はそうだろう。

 

『天気の子』を見て、多くの若者が感動したり、元気づけられればいいなと思う。閉塞感に覆われた世界で、傷つくことに恐れる若者の光になればいい。祈りになればいい。

 

でも、若者が目指すべき大人のいない世界はとても寂しいと思う。人間が、身体的な成長は止まっても、内面的な成長はいくつになってもできるように、経済的な成長が止まっても幸せに向かうために成長することはきっとできる。大人になってしまった僕は、若者や子どもたちのために自分にはこの世界に何ができるのか、考えながら生きていかないといけない。そして自分にできることをやろう。少なくとも僕はこの映画を見てそう受け取った。

絵文字がMoMAに収蔵されるまで。

僕が手がけた絵文字がニューヨーク近代美術館MoMA)に収蔵されるというニュースが、2016年10月26日、世界を駆け巡った。

第一報はニューヨークタイムズ。その前週にMoMAから10月24日週にアナウンスがあると連絡を受けていたので、僕は深夜にほぼリアルタイムでそのニュースを見つけた。
The New Times(2016/10/26)
MoMA Acquires Original Emoji

ついでロサンゼルスタイムスの見出しに興奮する。「絵文字が近代美術館でゴッホピカソの仲間入り」というのは最大級の賛辞だと思う。
Los Angels Times(2016/10/26)
Emojis join Van Gogh and Picasso at Museum of Modern Art

日本では27日の朝、NHKニュースを皮切りに各媒体で紹介された。それから国内外から取材の申し込みがあった。絵文字がMoMAに収蔵されたことを報じるニュースや僕が絵文字について受けた取材について、以下にまとめておこう。

MoMAオフィシャルリリース (2016/10/27)
The Original Emoji Set Has Been Added to The Museum of Modern Art’s Collection

ケータイWatch (2016/10/27)
絵文字、ニューヨークMoMAのコレクションに

IT Media(2016/10/27)
NTTドコモの初期の絵文字がニューヨーク近代美術館のコレクションに

iPhone Mania(2016/10/27)
ドコモが開発した絵文字、ニューヨークMoMAの永久収蔵品に!

garape (2016/10/28)
ドコモの絵文字→世界の『emoji』に ニューヨーク近代美術館に収蔵される快挙!

BuzzFeed(2016/11/8)
ドコモの絵文字、MoMAに収蔵 「すごいことすぎて現実感が…」生みの親の思い

毎日新聞(2016/11/29)
「絵文字」こと始め

i-D Japan(2016/12/9)
MoMA永久所蔵品「絵文字(emoji)」を作った男

日テレNEWS24(2016/12/13)
ニューヨーク近代美術館に「絵文字」展示

ケータイWatch(2016/12/22)
MoMAに収蔵された「絵文字」の“父”、栗田氏が語った開発当時のエピソード

AFP通信(2017/1/3)
絵文字がMoMAに、生みの親「歴史に残った栄誉」を喜ぶ

note 古川健介『TOKYO INTERNET』(2017/1/18)
なぜ日本が世界共通語「Emoji」を生み出したのか、そしてその影響とは

Difa(2017/1/20)
“The Original Emoji”生みの親・栗田穣崇さんに訊くモバイルコミュニケーションの未来 &「今年の絵文字」描いてもらいました!

ABC(2017/2/11)
Emoji inventor Shigetaka Kurita says MoMA New York acquisition 'feels like a dream'

産経ニュース(2017/2/17)
世界に広がった「emoji」 未知のサービス「行ける」と確信


絵文字がMoMAに収蔵されるきっかけは、2015年4月28日に僕のFacebookメッセンジャーに届いた一通のメッセージだ。奇しくもその日、日米首脳会談に先立つホワイトハウスの歓迎式典で、オバマ大統領が「カラテ、カラオケ、マンガ、アニメ、エモジ」といった日本語を披露、米国の若者らは日本のポップカルチャーが大好きで、それに感謝する良い機会でもあるとスピーチをしたばかりだった。
オバマ大統領が日本の"マンガ、アニメ"に感謝の意を表明!?  欧米のオタクからは歓喜の声

僕はちょうど連休で京都に旅行に出かけており、旅先でそのニュースの知らせが友人から届くとともに、TV局からも電話取材が入る慌ただしい日だったのだが、" From The Museum of Modern Art, New York_Tentative acquisition_First set of 176 Emojis" という書き出しではじまるメッセージが届いたとき、「えっ!?MoMAから?」と目を疑った。海外で絵文字熱が高まり、FacebookTwitterで一般の方から「ホットドッグの絵文字を追加して欲しい」と言ったリクエストめいたメッセージや、海外メディアからの取材申し込みは頻繁に来ていたものの、まさか美術館からお呼びがかかるとは絵文字の仕事をしてこの方、予想だにしていなかったことである。

メッセージはMoMA学芸員Ms.Michelle Millar Fisherからで、「シニアデザインキュレーターのMs.Paola Antonelliが176のオリジナルの絵文字をMoMAのコレクションとすることについて、6月の理事会に提案したいと考えている。ついてはあなたとそれについて議論したい」というものであった。僕は旅行中であることを取り急ぎ告げ、東京に戻り次第改めて連絡を取り合うことを返信した。

僕が絵文字を開発した当時、もちろん意匠登録をはじめとした権利取得の可能性にについてはドコモの知財部に相談したのだが、1998年時点で、12ドット×12ドットで作られたデザインについて権利を取得することは難しいという判断がなされ、少なくとも僕が担当していた間は権利を取得しなかった。知財部の見解として、12ドット×12ドットは表現力が乏しく、この環境下でデザインされたものについて、それがユニークだと判断されることは難しいだろう、つまり12ドット×12ドットで太陽をデザインしても、それにさほどのバリエーションが生まれないだろう、ということだった。結果論ではあるが、初期に権利で縛らなかったことは絵文字の普及においてプラスに働いたと思っている。ただその後、液晶のドット数が増えたどこかのタイミングでドコモが権利を取得している。

MoMAから連絡を受けた僕は、ドコモで絵文字周りを担当していた山口朋朗さんに2015年5月11日にメールを送り、本件について協力をお願いした。知財部にも確認を取ってもらい、MoMAに展示するだけであれば特に何の問題もない、との回答をいただき、MoMA学芸員との交渉についても引き継ぎをお願いした。

のだが...そこからドコモとMoMAの交渉は1年半の長きにわたる。聞いたところによると展示ではなく収蔵ということ、絵画や彫刻のような形のあるモノではなく、デジタルデザインということであまり前例がなく、両者のやりとりにかなりの時間を要したとのこと。ドコモとの交渉を行った学芸員のMr.Paul Gallowayにニューヨークでこの件について話したら、かなりハードなネゴシエーションだったそうで、本人曰くもう2度としたくないなあ(笑)とのことだった。「MoMAのデザインショップに絵文字グッズを置いたりしないのですか?」という僕の質問に、彼は「それはまたドコモと別の契約をしないといけないからなあ。ぜひ誰か他の人がやって欲しいな。」と答えていたので、本当に大変だったのだろう。。。

こうして絵文字がMoMAに収蔵された。なお現在、別の美術館にも絵文字を収蔵すべくネゴシエーションが続いている。そちらは僕のスケッチなども収蔵されるようだ。

次は、実際に僕がニューヨークのMoMAに絵文字の展示を見に行った話について書きたいと思う。

『君の名は。』の成功は、オタクの理想の女性像を封印したことにある。

新海誠監督作品を2002年の『ほしのこえ』から見続けている人間として、『君の名は。』は本来なら封切直後に見に行くべきものだったが、『秒速5センチメートル』以降の作品によるトラウマによって見るのが怖かったのと多忙とで、劇中で瀧くんが奥寺先輩とデートしていたとされる2016年10月2日にようやく見ることができた。

同じく『秒速5センチメートル』ショックを受けた友人たちから「今度は安心して見られる」という重要な情報と、ネットから否応なしに入ってくる「男女入れ替わりがモチーフである」という情報、そして興収100億円突破、つまり世の中的に作品として大成功をおさめたという情報以外の事前情報はなるべくシャットアウトして素直に見たのだが、これがとてもおもしろかった。

新海監督作品は前作の『言の葉の庭』で興収2億円弱、『秒速5センチメートル』で興収1億円程度でしかなく、それが日本のアニメ映画としてジブリ以外で初めて興収100億円を超える大ヒットとなった理由はなんだろうというのを見終えてからずっと考えていた。ネット上では「東宝が配給したから」「もののけ姫作画監督が携わっているから」「RADWIMPSのミュージッククリップとしてのデキがよかったから」という意見が散見されるが、僕は今作で新海監督が自らの理想の女性をキャラクターに投影することを封印したことこそに成功の本質があると思っている。

オタクの特性として「理性の女性像を自らで構築して、それを追い求めている」というものがある。それは男性にとって都合の良いリアルには存在しない女性像である。こういった男性視点の女性像を求めることは童貞臭いとも言われ、女性から「気持ち悪い」と言われる一般的に非常にウケの悪いものだ。大抵のオタクはそれはあくまで「観念的なもの」であり、そんな自らにとって都合の良い女性が現実にいるわけもないことは分かっているので、その代償を二次元やヴァーチャルな世界に求める。新海作品は一見、キャラクターの造形によるオタク的な記号性(必要以上に大きい胸など)はないように見えるのだが、むしろキャラクターの内面の部分においては濃厚にオタク的な理想が追及されていると言ってもいい。新海監督作品はそういう理想の女性像を求めながら、それを「理想ゆえに決して手に入らないもの」と作品の中で明確に示してしまったこと、つまりあえて突きつめなくてもいい現実を突きつけてしまったことが、オタクたちに前述の『秒速5センチメートル』ショックを与えた大きな要因でもある。

今作の主人公である瀧と三葉は、キャラクター付けとして非常にフラットで一般的な存在である。東京という都会に暮らす高校生と、鄙びた地方に暮らす高校生に共通する性格づけはなされてはいるものの、キャラクターそのものの個性やそれを語るためのエピソードは極力排されている。またオタク特有の性的な嗜好性を感じさせる描写も極力排されている。(唯一あるとすれば口噛み酒なのだが、そこは今作における監督の最後の砦なのであろう)瀧が三葉に入れ替わって胸を自分でもむシーンは健康的な思春期の男子ならごく当たり前の行為であるし、瀧が憧れる奥寺先輩も思春期の男子が憧れるステレオタイプな女性像であり、オタクにはウケの悪いであろう煙草を吸う描写を見せることや黒の下着を身に着けていることは、むしろ奥寺先輩をリアルな女性として描くことに成功している。瀧においても過去作の主人公のような特殊な(得てしてオタクっぽい)スキルや能力は持ち合わせていないし、2人の友人たちも特にオタクでもヤンキーでもない。

瀧と三葉は最終的には恋に落ちるわけだが、最初からそうだったわけではない。もちろんお互い好みの顔であった可能性はあるのだが、作中で最初から相手を好意的には表現していない。それが最も分かりやすいのは、三葉が瀧に会いに行き、電車で出会うシーンで瀧が最初三葉を拒絶するシーンである。もちろん瀧が奥手で子供だからというのはあるだろうが、電車で女性から話しかけられて好意的な反応をしない、というのはリアリティがある。彼らは最初から理想の相手を求めていたわけでもなく、最初から惹かれあっていたわけでもなく、相手との接触時間が増え、相手が気になりはじめ、ドラマチックな体験を共有したからこそ恋に落ちたのである。(作品ではそれを結びと表現している)そこに理由はなく、これはあくまでもリアルの恋愛のプロセスそのものである。

新海作品の「男性と女性との心の距離」というテーマはほぼ全ての作品に共通しており、『君の名は。』でもそれは一貫している。『君の名は。』が大ヒットできたのは、「オタクの理想の女性像」を封印して誰もが感情移入できるメタ的なキャラクターで物語を展開することで、もともと持っていた新海監督の才能をうまく引き出し、客層を飛躍的に広げることに成功したからである。作画監督安藤雅司、「心が叫びたがってるんだ。」のキャラクターデザインの田中将賀、そしてRADWIMPSは、オタク的な要素を排除するために必要だっただけであり、マスに受け入れられると判断したからこそ、東宝が配給を決定したのに過ぎない。

新海作品では「喪失」がひとつのテーマであったが(ご本人にも以前直接確認したのだが、個人的には村上春樹的なこじらせ方をしていると思っている)、今作で瀧と三葉がお互いを見つけたように、新海監督も今作で喪った何かを見つけたのかもしれない。次回作が試金石になるだろうし、そのプレッシャーはものすごいとは思うが、今は「君の名は。」の大ヒットおめでとうございます、と昔からのファンとしてはお祝いを申し上げたい。もしこの作品を感受性豊かな10代の頃に見ることができたならば、それは一生心に残るようなものになるだろうし、そういう点で今の10代がうらやましいと思った。


−以下は、まとまりのないまま、思いついたことを書き並べていく。

新海監督の強みは客観的な現実を主観的に描くことである。目に見える夕陽や月の美しさをカメラで撮ったとき、あまりに目で見ている風景と異なるものが写っていることにガッカリした体験は誰しもがあるが、それらの美しい風景は目で見ているのではなく脳で見ているからである。新海監督はありふれた現実の風景を非現実的に描くことで、より脳や心に訴えかける作品作りをしてきたが、それがInstagramのフィルターや写真の画像加工で現実を非現実に加工している10代の心を強くつかんだのではないだろうか。僕は地方出身で大学に通うために上京してきたが、東京に出てきてまずしたことは完成直後の都庁を真下から見上げることだった。新宿の高層ビル群は地方出身者にとって現実でありながら、非現実的なものの象徴であり、都会への憧れの象徴である。今作で新宿の高層ビル群が登場するが、長野出身の新海監督にとってもそれは同じ存在だったのだろう。東京に長く住んでいるとそういうことを忘れてしまうが、改めて何気ない普通の風景の美しさというものを新海作品に気づかされた。そしてこれだけたくさんの人がこの映画を見たことで、今後はこの新海監督の絵(美術)を見るだけで「これは新海作品である」と認知されたことは、今後の彼にとって何よりの財産になったのではないだろうか。

男女の入れ替わりとタイムリープはSFではよくあるモチーフだが、それらを組み合わせたことと、これはネタバレになるので伏せるが、瀧と三葉という主人公の2人が信じていたことはもちろん感情移入した視聴者も信じていたことで、それを同時に裏切って見せたことは仕掛けとしておもしろかった。一度見ただけでは情報量が多くて理解するのが難しく、何度見ても楽しめるつくりの映画が最近は多いが、今作もネタバレ前と後とで少なくとも2回は楽しめる作りだと思う。ただ、そもそもいろいろと矛盾のある設定だとは思うのでオタク的な追及に耐えられる作りにはなっていないし、それを求めるような作品ではない。

君の名は。』と同名の『君の名は』という1950年代を代表する映画がある。こちらも男女が不都合が起きてなかなか会えない、という話で、この「会えそうで会えない」という繰り返しはその後の恋愛ドラマでよく使われた演出の古典のひとつであるが、携帯電話の普及によって演出の難易度が格段に上がった。新海監督は一作目の『ほしのこえ』から、携帯メールを地球と宇宙でやりとりするのには時差があるということで果敢にこの演出に挑戦していたが、今回はタイムリープによって実現していた。男女がなかなか会えないというすれ違いをストーリーの軸にするためには、SFの力を借りないともう無理なのかもしれない。

これは完全に余談だが、糸守町は岐阜県の飛騨地方にある設定ということで僕の出身県と同じ岐阜県ではあるが、出身の大垣市(聾の形の舞台)と高山市とでは100km以上離れているため同じ県という認識が薄い。ところが使われている方言がほとんど同じであることに驚いた。中身が三葉の瀧が「なんか訛ってない?」と友人に突っ込まれるが、東京人は100%地方人にそのように突っ込んでくるのでリアルだった。(地方出身者のトラウマのひとつ) あとなぜか瀧くんの部屋に名古屋城のプラモデルがあるのが気になる。なぜ名古屋城

なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。

先日nanapiの海外向けメディアである「IGNITION」に表題のインタビュー記事が掲載された。このブログでもたびたび書いているように一昨年から昨年にかけて海外で絵文字の利用が爆発的に広がって、日本では今頃と感じるだろうが、海外で絵文字はまだホットな話題だからだ。

海外向けメディアということで全文英語の記事なので、以下に日本の方向けとして日本語訳を記載しておく。


なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。
栗田穣崇へのインタビュー

emoji 名詞 (複数形 emojiまたはemojis)

小さなデジタルイメージまたはアイコンでデジタルコミュニケーションにおいて感情や考えを表現するもの。
笑った顔の絵文字を使うとメッセージが楽しくなる。

由来
1990年代の日本で生まれた。e=絵+moji=文字、文という意味
(オンラインオックスフォード辞典より)

20世紀の終わりに日本で生まれた絵文字の原型。その最初の絵文字を生み出したのが、世界初のモバイル・インターネット・プラットフォームの立ち上げに関与していた、栗田穣崇だ。

1999年、日本で生まれたこのモバイル・インターネット・プラットフォームは、iモードという。栗田は日本最大手の携帯通信事業者であるNTTドコモiモードのプロジェクトチームに所属していた。iモードは当時日本で広く使われていたフィーチャーフォンでインターネットサービスを提供しようとするものだった。1999年当時のフィーチャーフォンの液晶画面はモノクロでとても小さく、48文字しか表示できない程度の大きさだった。

栗田は、このフィーチャーフォンの限られた画面スペースで情報やコンテンツを届けるには、絵文字がないと正直きびしいと思ったという。「iモードに先駆けて、AT&Tがテキストオンリーの情報サービスを携帯でやっていたので使ってみたら、天気予報も全部文字でfineとかって表示されていたので、分かりにくい!と思ったのです。日本のテレビでは天気予報が絵で表示されていて、それに慣れていたので、太陽の絵の晴れマークとかが欲しいと思いました。」

栗田はNTTドコモで店頭での販売経験があった。「僕がポケベルを売っていた時、ハートの絵文字を使うことがポケベルユーザーの間でとても人気だったのです。だから、ハートみたいな感情を表現できるものを追加することが、iモードではキラーになるんじゃないかなと思って。だから僕のほうからどうしても絵文字が欲しいと提案しました。企画者も当時は少なかったので、じゃ作って?っていう感じで僕が作ることになりました。」

とはいえ、iモードのリリースまでの時間は限られていたため、栗田は1か月の間に、人類史上最初の180の絵文字をすべて考えることになった。まず、最初の10日間、人間にどんな感情表現があるか知るため、街に出て人間ウォッチングをした。また、街にあるもので記号としてあったほうがいいのはなにかをリストアップするため、街にあるものもウォッチングした。

「最初は、いわゆるにこにこした顔とか5、6種類くらいの顔を考えつきました。最終的にはデジタルにするためドットをうたなくてはいけないので、デザイナーに依頼するのですが、絵文字自体が世の中になかったのでこちらからこういうのでつくってくださいと、自分で実際に絵をかいて、デザイナーさんにお願いしていました。」

絵文字の原案をつくるにあたって、なるべく多くのひとに使ってもらえるよう、わかりやすさや普遍性を意識したという。「新しく文字を作ろうと言う意識ではやっていました。どちらかと言うと絵というよりも文字を作るつもりでやっていました。」

栗田が絵文字を考案するため、お手本にしたアイデアソースは大きく2つある。一つはマンガだ。マンガの中には、「漫符」という、独特の記号表現がある。汗を表した水滴のマークを顔に描くことで「焦り」や「困惑」を表現したり、キャラクターの頭の上に電球マークを描くことで「ひらめき」を表現したりというものだ。栗田は、iモードユーザーとなる人たちが共通して理解できるような漫符を、マンガの中からピックアップしていった。

もう一つはピクトグラムだ。ピクトグラムは公共空間で情報や注意を促すために表示されるサインのことだ。男性・女性を記号化したトイレのマークや、走って逃げる人の非常口のマークなどが代表的だ。栗田によれば、ピクトグラムが広まった一つのきっかけは、1964年の東京オリンピックだという。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた美術批評家の勝見勝氏は、日本語の表示しかなかった各施設を、外国人にもわかるようにどうやって表示したら良いのかということが論議された際、絵で表示することを提案した。この提案を受けて、勝見氏のもとで、多くのピクトグラムが若手のデザイナーたちによって考案された。東京五輪の各競技種目も、このときピクトグラム化され、五輪競技がピクトグラム化される先駆けとなったという。

日本に生まれ、日本に縁が深いと思われる絵文字だが、日本的というよりもネット的なものだと、栗田はいう。「ネット上でテキストを使ってコミュニケーションするにあたって、やっぱり絵文字があると便利ですよね。テキストだけだとどうしても感情がみえないので。いままで手紙があって、次に電話があって、その次に電子的なメッセージが増えてきて、その流れで、感情が表現できる文字が必要になったということだと思う。ただ、日本には漢字という、表意文字がもともとあって、そういう土壌があったのだと思う。」

日本では、iモードの誕生で、絵文字は2000年頃から広く親しまれていた。それから遅れること約10年、iPhoneなどのスマホの普及で海外でも急速に広まった。このタイムラグは、ハード面の展開の違いが影響しているという。「日本でフィーチャーフォンと言われている物の海外版には、絵文字は入っていなかった。絵文字が搭載されている端末が無かったのが理由で、海外の人たちは、スマホで絵文字デビューしたのだと思う。日本人がiモードで絵文字使い始めたときに、何これ!って思った感覚を、海外の人はここ数年で体験をしているのじゃないかなと思います。絵文字を楽しんで使ってもらいたいですね。」

着メロ15周年に寄せて。

2014年12月3日は携帯電話向け着メロ(着信メロディ)サービス開始から15周年である。奇しくもプレイステーションの発売も20周年だが、いまだPS4として健在であるプレイステーションと比べると着メロはすでに過去のものとして忘れ去られてしまった感がある。だが着メロなくして今の日本のネットサービスは語ることはできない。着メロ15周年の日にあたり、着メロについて改めて振り返ってみたい。

着メロとは携帯電話の呼び出し音をカスタマイズする機能および、呼び出し音の配信サービスの総称である。古くは留守電の保留音やポケベルの呼び出し音などにそのルーツを求めることができる。世界で初めて着メロサービスを開始したのはPHS事業者のアステル*1で1997年のことだった。テレホンダイヤルに電話してプッシュ操作でいくつかある楽曲の中から選曲すると、単音の着信メロディのデータがダウンロードされる、というもので、配信楽曲は定期的に更新され通話料のみで利用ができた。ただ、アステルそのものの利用者が少ないこともあってほとんど認知はなかった。

むしろ当時は携帯電話に自分でデータを打ち込んで着メロを自作することが流行っていた。自作といっても譜面を知らないと作ることができないので、「着メロ本」という本が本屋やコンビニに大量に並んでいた。タブ譜のように機種ごとに着メロを作成するための数字キーの入力方法が書いてある本をみんながこぞって買って、1音1音数字キーで地道に入力して着メロを作るという、今から考えると嘘みたいに面倒なことをしていた。

iモードの開発でサービス企画をしていた僕はそういった流行りを見て「着メロがiモードキラーコンテンツになるのでは」と考えていたが、iモード端末そのものの開発が大変だったため初号機で実現することはできなかった。iモードが成功して、弐号機つまり502iの仕様の検討に入るときに着メロを売りの機能として搭載することを改めて提案した。折よく三菱電機、チップメーカーのロームと音源技術のフェイスという3社から着メロの提案があったため、これを502iで採用することにした。端末台数に応じたフィーで提案してきたフェイスの中西専務に、夏野さんが「そんな儲けなんて大したことがない。自分たちで着メロのサービスをやった方が儲かるよ」と話したことで、数か月後、中西さんはエクシングの鈴木さんを連れてきて、ポケメロJOYSOUNDというサービスを発売とともに開始する、ということになった。当時の着メロはMIDIをカスタマイズしたコンパクトMIDIという仕様で開発することになっており、MIDIデータをたくさん有しているカラオケ会社であるエクシングは格好のパートナー先であった。*2

iモードのコンテンツで最初に成功したのは待受画面サービス「キャラっぱ」を提供したバンダイだが、7月にギガネットワークスが着メロ入力データのサービスをはじめたところ、またたく間に10万人のユーザーが登録した。当時iモードが200万ユーザー程度だったので驚くことに全ユーザーの5%が利用していたことになる。着メロ入力データといっても、当時のiモード機はマルチタスクではないので、画面に表示された着メロ入力データを紙などに自分で書き写した後に携帯電話でそれを見ながらキー入力する、という当時でさえ面倒だと思っていたサービスにそれだけのユーザーがついたことで、間違いなく着メロサービスは流行ると僕も夏野さんも確信した。

502iの発売は1999年12月3日となり、売りはカラー液晶と3和音着メロサービスだった。最初に着メロをサービスしたのはエクシングとギガネットワークスの2社が行った。それまで手入力されていた着メロは単音であり3音になっただけでもリッチな印象があったのだが、好きな曲を手軽にダウンロードできるということで、iモードの普及を決定づけた。もし502iに着メロ機能がなかったら、ドコモに先駆けてKDDIなりJ-PHONEが着メロサービスをはじめていたら、iモードがあそこまで順調に普及することはなかっただろう。その後、N502iにはヤマハの4和音の音源が採用されて人気機種となり、着メロを提供するサービスもどんどん増え続け、2001年には16和音専用サービスとしてドワンゴの「イロメロミックス*3がスタートする。

着メロ本を買って多大な労力をかけてまで着メロが欲しかった多くのユーザーにとって、100円や300円で着メロが簡単に手に入る、という分かりやすい価値はデジタルコンテンツに対する小額課金への抵抗感を乗り越えるモチベーションとなった。着メロはいわば音楽ダウンロードサービスである。着メロがきっかけで有料コンテンツへの課金をはじめたという人は多かっただろう。iモードが成功するまで「ネットで有料コンテンツは成功しない」というのが常識だった。ネットのコンテンツはタダであり、広告モデルでないと成り立たない、という状況を変えたのが着メロである。しかも当時ドコモは従量課金を採用しておらず、すべて月額課金(サブスクリプションモデル)だったこともコンテンツプロバイダに幸いした。欲しいものだけワンタイムで購入するという従量モデルは一見ユーザーにとってメリットが高そうに見える。しかし従量モデルがコンテンツプロバイダにもたらす利益は大したことがない。

スマホアプリを例にとってみよう。100円のアプリが10万ダウンロードされても上代はわずか1000万円である。個人の小遣い稼ぎや個人商店のビジネスならともかく、会社が事業として行うには人件費、固定費のことを考えると売上としては少なすぎる。そもそも10万ダウンロードからして決して少ない仮定の数字ではない。ところが、これが月額モデルならば年間1億2000万円もの売上になるのである。しかも月額会員にはいわゆる休眠会員、幽霊会員というユーザーが一定数存在するため、利益ベースではさらに大きくなる。そして、いきなり会員がゼロになることもないので事業計画も立てやすくなり、経営基盤も安定して投資も行いやすくなる。着メロの成功をきっかけに上場した会社が数多くあった。こう書くと、それはあくまで提供者側のメリットであって、ユーザー側は不当に搾取されているだけではないか?と思う向きもあるだろう。しかし市場が1社の寡占状態ならばともかく競争状態であるならば、提供者側が潤えばサービスのクオリティやボリュームが向上して、結果ユーザーにフィードバックされるものである。たとえユーザーにメリットがあっても提供者側が儲からなければサービスそのものが終了してしまうのだから。

どうしてここまで着メロが流行ったのだろうか。ひとつ言えるのは「音楽CDの売上が1998年にピークだった」ということである。1991年頃から番組タイアップをきっかけにミリオンが連発し、小室ブームがあり、2000年には宇多田ヒカル浜崎あゆみらがしのぎを削り、世の中において話題の中心が音楽だった、という背景が影響していたことは間違いない。着メロは単なる音楽ダウンロードにとどまらず、学校や飲み会などでのコミュニケーションツールになっていた。着メロサービスはサブスクリプションモデルだったことで、単なる楽曲のダウンロードだけにとどまらず、運営サービスとしてユーザーのニッチタイムの受け皿となった。CDの新曲が発売されて新しい着メロがダウンロードできる水曜日に着メロサイトへのアクセスは急増した。SNSもなく、掲示板やブログがまだPCユーザーのものだった時代に、着メロサイトは多くの人にとって総合エンターテイメントだったのだ。

そんな着メロも着うたを経ていつの間にか下火になり、まだ存続はしているものの世の中の表舞台から消えていった。着メロという機能そのものはスマホになっても引き続き存在しているのに話題になることはないのは、着メロが単なる機能として需要があったわけではないことの証左だろう。当時着メロが担っていた役割はSNSやゲームアプリ、動画共有サイトなどに引き継がれている。

その中で最も着メロの遺産を引き継いでいるのはドワンゴのニコニコだろう。ドワンゴの着メロサイトである「イロメロミックス」は着メロサイトの中で最も実験的な試みを多く行っており、着ボイスではGacktや吉本の起用で話題を作った。サイト運営や著作権のノウハウや、芸能事務所との関係性などは着メロサービスをきっかけにして蓄積されていったものである。姉妹サイトのアニメロミックスがアニメロサマーライブを大きくしていったことも今につながっている。そもそも最初から無料サイトではなくサブスクリプションモデルがベースであるという点が、同じ動画共有サイトであるYoutubeと思想面で全く違うのである。クリス・アンダーソンが書いた悪書「FREE」のせいで、「ネットコンテンツはやはり無料だろう」という反動が起きたが、世界的にもサブスクリプションモデルへの回帰が起きている。世界のスマホアプリマーケットの市場規模において日本が世界最大の市場規模であることも、着メロが築いたネットコンテンツにお金を払うという土壌あってのことだ。

ということで着メロの歴史とその果たした役割についてつらつら書いてみた。歴史の徒花(あだばな)とは片付けられないほど、日本のネットサービスに影響を与えた「着メロ」というものがあったということを記憶の隅にでも留めておいていただけたなら幸いだ。

*1:「着メロ」の商標登録を行ったのもアステル東京で、ゆえにiモード時代に各社は「着メロ」というワードを公式に使うことができなかった

*2:とはいっても機種ごとのカスタマイズも大変で、MIDIデータがあれば着メロがすぐ作れるというわけではなかった

*3:16和音のサービスだからイロメロ(16メロ)というネーミングだが、このセンスは超会議で見て取れるようにドワンゴのDNAのような気がする

夏野さんがやってきた。

iモードの開発をはじめて3か月経った97年7月、夏野剛さんがチームに加わる。夏野さんと初めて会ったのは広尾のイタリアンレストラン「イル・ブッテロ」でだった。最初から最後までまくしたてるように自分のアイデアを話し続ける夏野さんは、真理さんとはまた違った意味で今まで出会ったことのないタイプの人で、ただただ圧倒された。新入社員に毛の生えた僕ですらそうだったのだから、ドコモのほとんどの社員の人は夏野さんにカルチャーショックを受けたに違いない。夏野さんは今のような毒舌キャラではまだなく、眼鏡をかけた細面で柔和な人だが話し出すと止まらない、という感じだった。

夏野さんはハイパーネットというインターネット広告会社の副社長をしていた。インターネットに接続するにはプロバイダ契約が必要だが、ハイパーネットはユーザー属性を把握しユーザーにあったターゲティング広告をブラウザに表示することで無料でインターネットを使える、というビジネスモデルを構築し、ニュービジネス協議会から「ニュービジネス大賞」および「通商産業大臣賞」を受賞したサービス「HotCafe」を展開していた。今も続くネット広告の先駆けであり画期的なサービスだったのだが、残念ながらあまりにも早すぎた。まだまだネット広告市場は小さく成長も緩やかだったのだ。また、ハイパーネットのブラウザをユーザーが自らインストールしなければいけない、という点でユーザーのハードルも高かった。奇しくもマイクロソフトWindowsInternet Explorerをプリインストールすることで一気にNetscape Navigatorを駆逐している時期でもあった。もしハイパーネットのブラウザがOSにプリインストールされることがあれば話は違っていたかもしれない。

ハイパーネットはその後97年12月に倒産することになる。ハイパーネットについては社長の板倉雄一郎氏が『社長失格 〜ぼくの会社がつぶれた理由〜』を書いており、おもしろいので興味ある方は一読されたし。

社長失格

社長失格

夏野さんはハイパーネットで苦労していただけに、携帯電話でインターネットネットサービスという着想は目からウロコが落ちる思いだったらしい。つまり、まだまだ普及していないPCに比べて携帯電話は1人1台持っていること、常時接続でありネットにつなぐのにいちいち回線接続しなくてよいこと、ブラウザがOSにプリインストールされていること、ドコモというキャリアが行うことで回線から端末、サービスまで垂直型のビジネスモデルが構築できること、料金を電話代と併せてユーザーから徴収できることでユーザーのエントリーバリアが低いこと、などなどハイパーネットでの課題をすべて解決できる可能性に充ちていたからである。

夏野さんはもともと新卒で東京ガスに入社していただけに社会インフラを構築したい、という思いが強い人である。出会ってすぐに「ハイパーネットでビルゲイツに会ったときに、ウォレットPC(つまりオサイフPC)をやるべきだという話をしたのにいまいちウケが悪かった。俺は携帯電話でウォレットケータイを実現したいんだ」「ゆりかごから墓場まで。生まれた時に携帯電話の番号が振り当てられて、死ぬ時にオールリセットできたらおもしろい。」といろいろ夢を語ってくれた。それから7年後の2004年、おサイフケータイで夏野さんはその夢を見事に実現する。

夏野さんというビジネス戦略とアライアンスの達人がチームに加わることで、iモードの開発はいよいよ本格的に動き出した。