絵文字がMoMAに収蔵されるまで。

僕が手がけた絵文字がニューヨーク近代美術館MoMA)に収蔵されるというニュースが、2016年10月26日、世界を駆け巡った。

第一報はニューヨークタイムズ。その前週にMoMAから10月24日週にアナウンスがあると連絡を受けていたので、僕は深夜にほぼリアルタイムでそのニュースを見つけた。
The New Times(2016/10/26)
MoMA Acquires Original Emoji

ついでロサンゼルスタイムスの見出しに興奮する。「絵文字が近代美術館でゴッホピカソの仲間入り」というのは最大級の賛辞だと思う。
Los Angels Times(2016/10/26)
Emojis join Van Gogh and Picasso at Museum of Modern Art

日本では27日の朝、NHKニュースを皮切りに各媒体で紹介された。それから国内外から取材の申し込みがあった。絵文字がMoMAに収蔵されたことを報じるニュースや僕が絵文字について受けた取材について、以下にまとめておこう。

MoMAオフィシャルリリース (2016/10/27)
The Original Emoji Set Has Been Added to The Museum of Modern Art’s Collection

ケータイWatch (2016/10/27)
絵文字、ニューヨークMoMAのコレクションに

IT Media(2016/10/27)
NTTドコモの初期の絵文字がニューヨーク近代美術館のコレクションに

iPhone Mania(2016/10/27)
ドコモが開発した絵文字、ニューヨークMoMAの永久収蔵品に!

garape (2016/10/28)
ドコモの絵文字→世界の『emoji』に ニューヨーク近代美術館に収蔵される快挙!

BuzzFeed(2016/11/8)
ドコモの絵文字、MoMAに収蔵 「すごいことすぎて現実感が…」生みの親の思い

毎日新聞(2016/11/29)
「絵文字」こと始め

i-D Japan(2016/12/9)
MoMA永久所蔵品「絵文字(emoji)」を作った男

日テレNEWS24(2016/12/13)
ニューヨーク近代美術館に「絵文字」展示

ケータイWatch(2016/12/22)
MoMAに収蔵された「絵文字」の“父”、栗田氏が語った開発当時のエピソード

AFP通信(2017/1/3)
絵文字がMoMAに、生みの親「歴史に残った栄誉」を喜ぶ

note 古川健介『TOKYO INTERNET』(2017/1/18)
なぜ日本が世界共通語「Emoji」を生み出したのか、そしてその影響とは

Difa(2017/1/20)
“The Original Emoji”生みの親・栗田穣崇さんに訊くモバイルコミュニケーションの未来 &「今年の絵文字」描いてもらいました!

ABC(2017/2/11)
Emoji inventor Shigetaka Kurita says MoMA New York acquisition 'feels like a dream'

産経ニュース(2017/2/17)
世界に広がった「emoji」 未知のサービス「行ける」と確信


絵文字がMoMAに収蔵されるきっかけは、2015年4月28日に僕のFacebookメッセンジャーに届いた一通のメッセージだ。奇しくもその日、日米首脳会談に先立つホワイトハウスの歓迎式典で、オバマ大統領が「カラテ、カラオケ、マンガ、アニメ、エモジ」といった日本語を披露、米国の若者らは日本のポップカルチャーが大好きで、それに感謝する良い機会でもあるとスピーチをしたばかりだった。
オバマ大統領が日本の"マンガ、アニメ"に感謝の意を表明!?  欧米のオタクからは歓喜の声

僕はちょうど連休で京都に旅行に出かけており、旅先でそのニュースの知らせが友人から届くとともに、TV局からも電話取材が入る慌ただしい日だったのだが、" From The Museum of Modern Art, New York_Tentative acquisition_First set of 176 Emojis" という書き出しではじまるメッセージが届いたとき、「えっ!?MoMAから?」と目を疑った。海外で絵文字熱が高まり、FacebookTwitterで一般の方から「ホットドッグの絵文字を追加して欲しい」と言ったリクエストめいたメッセージや、海外メディアからの取材申し込みは頻繁に来ていたものの、まさか美術館からお呼びがかかるとは絵文字の仕事をしてこの方、予想だにしていなかったことである。

メッセージはMoMA学芸員Ms.Michelle Millar Fisherからで、「シニアデザインキュレーターのMs.Paola Antonelliが176のオリジナルの絵文字をMoMAのコレクションとすることについて、6月の理事会に提案したいと考えている。ついてはあなたとそれについて議論したい」というものであった。僕は旅行中であることを取り急ぎ告げ、東京に戻り次第改めて連絡を取り合うことを返信した。

僕が絵文字を開発した当時、もちろん意匠登録をはじめとした権利取得の可能性にについてはドコモの知財部に相談したのだが、1998年時点で、12ドット×12ドットで作られたデザインについて権利を取得することは難しいという判断がなされ、少なくとも僕が担当していた間は権利を取得しなかった。知財部の見解として、12ドット×12ドットは表現力が乏しく、この環境下でデザインされたものについて、それがユニークだと判断されることは難しいだろう、つまり12ドット×12ドットで太陽をデザインしても、それにさほどのバリエーションが生まれないだろう、ということだった。結果論ではあるが、初期に権利で縛らなかったことは絵文字の普及においてプラスに働いたと思っている。ただその後、液晶のドット数が増えたどこかのタイミングでドコモが権利を取得している。

MoMAから連絡を受けた僕は、ドコモで絵文字周りを担当していた山口朋朗さんに2015年5月11日にメールを送り、本件について協力をお願いした。知財部にも確認を取ってもらい、MoMAに展示するだけであれば特に何の問題もない、との回答をいただき、MoMA学芸員との交渉についても引き継ぎをお願いした。

のだが...そこからドコモとMoMAの交渉は1年半の長きにわたる。聞いたところによると展示ではなく収蔵ということ、絵画や彫刻のような形のあるモノではなく、デジタルデザインということであまり前例がなく、両者のやりとりにかなりの時間を要したとのこと。ドコモとの交渉を行った学芸員のMr.Paul Gallowayにニューヨークでこの件について話したら、かなりハードなネゴシエーションだったそうで、本人曰くもう2度としたくないなあ(笑)とのことだった。「MoMAのデザインショップに絵文字グッズを置いたりしないのですか?」という僕の質問に、彼は「それはまたドコモと別の契約をしないといけないからなあ。ぜひ誰か他の人がやって欲しいな。」と答えていたので、本当に大変だったのだろう。。。

こうして絵文字がMoMAに収蔵された。なお現在、別の美術館にも絵文字を収蔵すべくネゴシエーションが続いている。そちらは僕のスケッチなども収蔵されるようだ。

次は、実際に僕がニューヨークのMoMAに絵文字の展示を見に行った話について書きたいと思う。

『君の名は。』の成功は、オタクの理想の女性像を封印したことにある。

新海誠監督作品を2002年の『ほしのこえ』から見続けている人間として、『君の名は。』は本来なら封切直後に見に行くべきものだったが、『秒速5センチメートル』以降の作品によるトラウマによって見るのが怖かったのと多忙とで、劇中で瀧くんが奥寺先輩とデートしていたとされる2016年10月2日にようやく見ることができた。

同じく『秒速5センチメートル』ショックを受けた友人たちから「今度は安心して見られる」という重要な情報と、ネットから否応なしに入ってくる「男女入れ替わりがモチーフである」という情報、そして興収100億円突破、つまり世の中的に作品として大成功をおさめたという情報以外の事前情報はなるべくシャットアウトして素直に見たのだが、これがとてもおもしろかった。

新海監督作品は前作の『言の葉の庭』で興収2億円弱、『秒速5センチメートル』で興収1億円程度でしかなく、それが日本のアニメ映画としてジブリ以外で初めて興収100億円を超える大ヒットとなった理由はなんだろうというのを見終えてからずっと考えていた。ネット上では「東宝が配給したから」「もののけ姫作画監督が携わっているから」「RADWIMPSのミュージッククリップとしてのデキがよかったから」という意見が散見されるが、僕は今作で新海監督が自らの理想の女性をキャラクターに投影することを封印したことこそに成功の本質があると思っている。

オタクの特性として「理性の女性像を自らで構築して、それを追い求めている」というものがある。それは男性にとって都合の良いリアルには存在しない女性像である。こういった男性視点の女性像を求めることは童貞臭いとも言われ、女性から「気持ち悪い」と言われる一般的に非常にウケの悪いものだ。大抵のオタクはそれはあくまで「観念的なもの」であり、そんな自らにとって都合の良い女性が現実にいるわけもないことは分かっているので、その代償を二次元やヴァーチャルな世界に求める。新海作品は一見、キャラクターの造形によるオタク的な記号性(必要以上に大きい胸など)はないように見えるのだが、むしろキャラクターの内面の部分においては濃厚にオタク的な理想が追及されていると言ってもいい。新海監督作品はそういう理想の女性像を求めながら、それを「理想ゆえに決して手に入らないもの」と作品の中で明確に示してしまったこと、つまりあえて突きつめなくてもいい現実を突きつけてしまったことが、オタクたちに前述の『秒速5センチメートル』ショックを与えた大きな要因でもある。

今作の主人公である瀧と三葉は、キャラクター付けとして非常にフラットで一般的な存在である。東京という都会に暮らす高校生と、鄙びた地方に暮らす高校生に共通する性格づけはなされてはいるものの、キャラクターそのものの個性やそれを語るためのエピソードは極力排されている。またオタク特有の性的な嗜好性を感じさせる描写も極力排されている。(唯一あるとすれば口噛み酒なのだが、そこは今作における監督の最後の砦なのであろう)瀧が三葉に入れ替わって胸を自分でもむシーンは健康的な思春期の男子ならごく当たり前の行為であるし、瀧が憧れる奥寺先輩も思春期の男子が憧れるステレオタイプな女性像であり、オタクにはウケの悪いであろう煙草を吸う描写を見せることや黒の下着を身に着けていることは、むしろ奥寺先輩をリアルな女性として描くことに成功している。瀧においても過去作の主人公のような特殊な(得てしてオタクっぽい)スキルや能力は持ち合わせていないし、2人の友人たちも特にオタクでもヤンキーでもない。

瀧と三葉は最終的には恋に落ちるわけだが、最初からそうだったわけではない。もちろんお互い好みの顔であった可能性はあるのだが、作中で最初から相手を好意的には表現していない。それが最も分かりやすいのは、三葉が瀧に会いに行き、電車で出会うシーンで瀧が最初三葉を拒絶するシーンである。もちろん瀧が奥手で子供だからというのはあるだろうが、電車で女性から話しかけられて好意的な反応をしない、というのはリアリティがある。彼らは最初から理想の相手を求めていたわけでもなく、最初から惹かれあっていたわけでもなく、相手との接触時間が増え、相手が気になりはじめ、ドラマチックな体験を共有したからこそ恋に落ちたのである。(作品ではそれを結びと表現している)そこに理由はなく、これはあくまでもリアルの恋愛のプロセスそのものである。

新海作品の「男性と女性との心の距離」というテーマはほぼ全ての作品に共通しており、『君の名は。』でもそれは一貫している。『君の名は。』が大ヒットできたのは、「オタクの理想の女性像」を封印して誰もが感情移入できるメタ的なキャラクターで物語を展開することで、もともと持っていた新海監督の才能をうまく引き出し、客層を飛躍的に広げることに成功したからである。作画監督安藤雅司、「心が叫びたがってるんだ。」のキャラクターデザインの田中将賀、そしてRADWIMPSは、オタク的な要素を排除するために必要だっただけであり、マスに受け入れられると判断したからこそ、東宝が配給を決定したのに過ぎない。

新海作品では「喪失」がひとつのテーマであったが(ご本人にも以前直接確認したのだが、個人的には村上春樹的なこじらせ方をしていると思っている)、今作で瀧と三葉がお互いを見つけたように、新海監督も今作で喪った何かを見つけたのかもしれない。次回作が試金石になるだろうし、そのプレッシャーはものすごいとは思うが、今は「君の名は。」の大ヒットおめでとうございます、と昔からのファンとしてはお祝いを申し上げたい。もしこの作品を感受性豊かな10代の頃に見ることができたならば、それは一生心に残るようなものになるだろうし、そういう点で今の10代がうらやましいと思った。


−以下は、まとまりのないまま、思いついたことを書き並べていく。

新海監督の強みは客観的な現実を主観的に描くことである。目に見える夕陽や月の美しさをカメラで撮ったとき、あまりに目で見ている風景と異なるものが写っていることにガッカリした体験は誰しもがあるが、それらの美しい風景は目で見ているのではなく脳で見ているからである。新海監督はありふれた現実の風景を非現実的に描くことで、より脳や心に訴えかける作品作りをしてきたが、それがInstagramのフィルターや写真の画像加工で現実を非現実に加工している10代の心を強くつかんだのではないだろうか。僕は地方出身で大学に通うために上京してきたが、東京に出てきてまずしたことは完成直後の都庁を真下から見上げることだった。新宿の高層ビル群は地方出身者にとって現実でありながら、非現実的なものの象徴であり、都会への憧れの象徴である。今作で新宿の高層ビル群が登場するが、長野出身の新海監督にとってもそれは同じ存在だったのだろう。東京に長く住んでいるとそういうことを忘れてしまうが、改めて何気ない普通の風景の美しさというものを新海作品に気づかされた。そしてこれだけたくさんの人がこの映画を見たことで、今後はこの新海監督の絵(美術)を見るだけで「これは新海作品である」と認知されたことは、今後の彼にとって何よりの財産になったのではないだろうか。

男女の入れ替わりとタイムリープはSFではよくあるモチーフだが、それらを組み合わせたことと、これはネタバレになるので伏せるが、瀧と三葉という主人公の2人が信じていたことはもちろん感情移入した視聴者も信じていたことで、それを同時に裏切って見せたことは仕掛けとしておもしろかった。一度見ただけでは情報量が多くて理解するのが難しく、何度見ても楽しめるつくりの映画が最近は多いが、今作もネタバレ前と後とで少なくとも2回は楽しめる作りだと思う。ただ、そもそもいろいろと矛盾のある設定だとは思うのでオタク的な追及に耐えられる作りにはなっていないし、それを求めるような作品ではない。

君の名は。』と同名の『君の名は』という1950年代を代表する映画がある。こちらも男女が不都合が起きてなかなか会えない、という話で、この「会えそうで会えない」という繰り返しはその後の恋愛ドラマでよく使われた演出の古典のひとつであるが、携帯電話の普及によって演出の難易度が格段に上がった。新海監督は一作目の『ほしのこえ』から、携帯メールを地球と宇宙でやりとりするのには時差があるということで果敢にこの演出に挑戦していたが、今回はタイムリープによって実現していた。男女がなかなか会えないというすれ違いをストーリーの軸にするためには、SFの力を借りないともう無理なのかもしれない。

これは完全に余談だが、糸守町は岐阜県の飛騨地方にある設定ということで僕の出身県と同じ岐阜県ではあるが、出身の大垣市(聾の形の舞台)と高山市とでは100km以上離れているため同じ県という認識が薄い。ところが使われている方言がほとんど同じであることに驚いた。中身が三葉の瀧が「なんか訛ってない?」と友人に突っ込まれるが、東京人は100%地方人にそのように突っ込んでくるのでリアルだった。(地方出身者のトラウマのひとつ) あとなぜか瀧くんの部屋に名古屋城のプラモデルがあるのが気になる。なぜ名古屋城

なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。

先日nanapiの海外向けメディアである「IGNITION」に表題のインタビュー記事が掲載された。このブログでもたびたび書いているように一昨年から昨年にかけて海外で絵文字の利用が爆発的に広がって、日本では今頃と感じるだろうが、海外で絵文字はまだホットな話題だからだ。

海外向けメディアということで全文英語の記事なので、以下に日本の方向けとして日本語訳を記載しておく。


なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。
栗田穣崇へのインタビュー

emoji 名詞 (複数形 emojiまたはemojis)

小さなデジタルイメージまたはアイコンでデジタルコミュニケーションにおいて感情や考えを表現するもの。
笑った顔の絵文字を使うとメッセージが楽しくなる。

由来
1990年代の日本で生まれた。e=絵+moji=文字、文という意味
(オンラインオックスフォード辞典より)

20世紀の終わりに日本で生まれた絵文字の原型。その最初の絵文字を生み出したのが、世界初のモバイル・インターネット・プラットフォームの立ち上げに関与していた、栗田穣崇だ。

1999年、日本で生まれたこのモバイル・インターネット・プラットフォームは、iモードという。栗田は日本最大手の携帯通信事業者であるNTTドコモiモードのプロジェクトチームに所属していた。iモードは当時日本で広く使われていたフィーチャーフォンでインターネットサービスを提供しようとするものだった。1999年当時のフィーチャーフォンの液晶画面はモノクロでとても小さく、48文字しか表示できない程度の大きさだった。

栗田は、このフィーチャーフォンの限られた画面スペースで情報やコンテンツを届けるには、絵文字がないと正直きびしいと思ったという。「iモードに先駆けて、AT&Tがテキストオンリーの情報サービスを携帯でやっていたので使ってみたら、天気予報も全部文字でfineとかって表示されていたので、分かりにくい!と思ったのです。日本のテレビでは天気予報が絵で表示されていて、それに慣れていたので、太陽の絵の晴れマークとかが欲しいと思いました。」

栗田はNTTドコモで店頭での販売経験があった。「僕がポケベルを売っていた時、ハートの絵文字を使うことがポケベルユーザーの間でとても人気だったのです。だから、ハートみたいな感情を表現できるものを追加することが、iモードではキラーになるんじゃないかなと思って。だから僕のほうからどうしても絵文字が欲しいと提案しました。企画者も当時は少なかったので、じゃ作って?っていう感じで僕が作ることになりました。」

とはいえ、iモードのリリースまでの時間は限られていたため、栗田は1か月の間に、人類史上最初の180の絵文字をすべて考えることになった。まず、最初の10日間、人間にどんな感情表現があるか知るため、街に出て人間ウォッチングをした。また、街にあるもので記号としてあったほうがいいのはなにかをリストアップするため、街にあるものもウォッチングした。

「最初は、いわゆるにこにこした顔とか5、6種類くらいの顔を考えつきました。最終的にはデジタルにするためドットをうたなくてはいけないので、デザイナーに依頼するのですが、絵文字自体が世の中になかったのでこちらからこういうのでつくってくださいと、自分で実際に絵をかいて、デザイナーさんにお願いしていました。」

絵文字の原案をつくるにあたって、なるべく多くのひとに使ってもらえるよう、わかりやすさや普遍性を意識したという。「新しく文字を作ろうと言う意識ではやっていました。どちらかと言うと絵というよりも文字を作るつもりでやっていました。」

栗田が絵文字を考案するため、お手本にしたアイデアソースは大きく2つある。一つはマンガだ。マンガの中には、「漫符」という、独特の記号表現がある。汗を表した水滴のマークを顔に描くことで「焦り」や「困惑」を表現したり、キャラクターの頭の上に電球マークを描くことで「ひらめき」を表現したりというものだ。栗田は、iモードユーザーとなる人たちが共通して理解できるような漫符を、マンガの中からピックアップしていった。

もう一つはピクトグラムだ。ピクトグラムは公共空間で情報や注意を促すために表示されるサインのことだ。男性・女性を記号化したトイレのマークや、走って逃げる人の非常口のマークなどが代表的だ。栗田によれば、ピクトグラムが広まった一つのきっかけは、1964年の東京オリンピックだという。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた美術批評家の勝見勝氏は、日本語の表示しかなかった各施設を、外国人にもわかるようにどうやって表示したら良いのかということが論議された際、絵で表示することを提案した。この提案を受けて、勝見氏のもとで、多くのピクトグラムが若手のデザイナーたちによって考案された。東京五輪の各競技種目も、このときピクトグラム化され、五輪競技がピクトグラム化される先駆けとなったという。

日本に生まれ、日本に縁が深いと思われる絵文字だが、日本的というよりもネット的なものだと、栗田はいう。「ネット上でテキストを使ってコミュニケーションするにあたって、やっぱり絵文字があると便利ですよね。テキストだけだとどうしても感情がみえないので。いままで手紙があって、次に電話があって、その次に電子的なメッセージが増えてきて、その流れで、感情が表現できる文字が必要になったということだと思う。ただ、日本には漢字という、表意文字がもともとあって、そういう土壌があったのだと思う。」

日本では、iモードの誕生で、絵文字は2000年頃から広く親しまれていた。それから遅れること約10年、iPhoneなどのスマホの普及で海外でも急速に広まった。このタイムラグは、ハード面の展開の違いが影響しているという。「日本でフィーチャーフォンと言われている物の海外版には、絵文字は入っていなかった。絵文字が搭載されている端末が無かったのが理由で、海外の人たちは、スマホで絵文字デビューしたのだと思う。日本人がiモードで絵文字使い始めたときに、何これ!って思った感覚を、海外の人はここ数年で体験をしているのじゃないかなと思います。絵文字を楽しんで使ってもらいたいですね。」

着メロ15周年に寄せて。

2014年12月3日は携帯電話向け着メロ(着信メロディ)サービス開始から15周年である。奇しくもプレイステーションの発売も20周年だが、いまだPS4として健在であるプレイステーションと比べると着メロはすでに過去のものとして忘れ去られてしまった感がある。だが着メロなくして今の日本のネットサービスは語ることはできない。着メロ15周年の日にあたり、着メロについて改めて振り返ってみたい。

着メロとは携帯電話の呼び出し音をカスタマイズする機能および、呼び出し音の配信サービスの総称である。古くは留守電の保留音やポケベルの呼び出し音などにそのルーツを求めることができる。世界で初めて着メロサービスを開始したのはPHS事業者のアステル*1で1997年のことだった。テレホンダイヤルに電話してプッシュ操作でいくつかある楽曲の中から選曲すると、単音の着信メロディのデータがダウンロードされる、というもので、配信楽曲は定期的に更新され通話料のみで利用ができた。ただ、アステルそのものの利用者が少ないこともあってほとんど認知はなかった。

むしろ当時は携帯電話に自分でデータを打ち込んで着メロを自作することが流行っていた。自作といっても譜面を知らないと作ることができないので、「着メロ本」という本が本屋やコンビニに大量に並んでいた。タブ譜のように機種ごとに着メロを作成するための数字キーの入力方法が書いてある本をみんながこぞって買って、1音1音数字キーで地道に入力して着メロを作るという、今から考えると嘘みたいに面倒なことをしていた。

iモードの開発でサービス企画をしていた僕はそういった流行りを見て「着メロがiモードキラーコンテンツになるのでは」と考えていたが、iモード端末そのものの開発が大変だったため初号機で実現することはできなかった。iモードが成功して、弐号機つまり502iの仕様の検討に入るときに着メロを売りの機能として搭載することを改めて提案した。折よく三菱電機、チップメーカーのロームと音源技術のフェイスという3社から着メロの提案があったため、これを502iで採用することにした。端末台数に応じたフィーで提案してきたフェイスの中西専務に、夏野さんが「そんな儲けなんて大したことがない。自分たちで着メロのサービスをやった方が儲かるよ」と話したことで、数か月後、中西さんはエクシングの鈴木さんを連れてきて、ポケメロJOYSOUNDというサービスを発売とともに開始する、ということになった。当時の着メロはMIDIをカスタマイズしたコンパクトMIDIという仕様で開発することになっており、MIDIデータをたくさん有しているカラオケ会社であるエクシングは格好のパートナー先であった。*2

iモードのコンテンツで最初に成功したのは待受画面サービス「キャラっぱ」を提供したバンダイだが、7月にギガネットワークスが着メロ入力データのサービスをはじめたところ、またたく間に10万人のユーザーが登録した。当時iモードが200万ユーザー程度だったので驚くことに全ユーザーの5%が利用していたことになる。着メロ入力データといっても、当時のiモード機はマルチタスクではないので、画面に表示された着メロ入力データを紙などに自分で書き写した後に携帯電話でそれを見ながらキー入力する、という当時でさえ面倒だと思っていたサービスにそれだけのユーザーがついたことで、間違いなく着メロサービスは流行ると僕も夏野さんも確信した。

502iの発売は1999年12月3日となり、売りはカラー液晶と3和音着メロサービスだった。最初に着メロをサービスしたのはエクシングとギガネットワークスの2社が行った。それまで手入力されていた着メロは単音であり3音になっただけでもリッチな印象があったのだが、好きな曲を手軽にダウンロードできるということで、iモードの普及を決定づけた。もし502iに着メロ機能がなかったら、ドコモに先駆けてKDDIなりJ-PHONEが着メロサービスをはじめていたら、iモードがあそこまで順調に普及することはなかっただろう。その後、N502iにはヤマハの4和音の音源が採用されて人気機種となり、着メロを提供するサービスもどんどん増え続け、2001年には16和音専用サービスとしてドワンゴの「イロメロミックス*3がスタートする。

着メロ本を買って多大な労力をかけてまで着メロが欲しかった多くのユーザーにとって、100円や300円で着メロが簡単に手に入る、という分かりやすい価値はデジタルコンテンツに対する小額課金への抵抗感を乗り越えるモチベーションとなった。着メロはいわば音楽ダウンロードサービスである。着メロがきっかけで有料コンテンツへの課金をはじめたという人は多かっただろう。iモードが成功するまで「ネットで有料コンテンツは成功しない」というのが常識だった。ネットのコンテンツはタダであり、広告モデルでないと成り立たない、という状況を変えたのが着メロである。しかも当時ドコモは従量課金を採用しておらず、すべて月額課金(サブスクリプションモデル)だったこともコンテンツプロバイダに幸いした。欲しいものだけワンタイムで購入するという従量モデルは一見ユーザーにとってメリットが高そうに見える。しかし従量モデルがコンテンツプロバイダにもたらす利益は大したことがない。

スマホアプリを例にとってみよう。100円のアプリが10万ダウンロードされても上代はわずか1000万円である。個人の小遣い稼ぎや個人商店のビジネスならともかく、会社が事業として行うには人件費、固定費のことを考えると売上としては少なすぎる。そもそも10万ダウンロードからして決して少ない仮定の数字ではない。ところが、これが月額モデルならば年間1億2000万円もの売上になるのである。しかも月額会員にはいわゆる休眠会員、幽霊会員というユーザーが一定数存在するため、利益ベースではさらに大きくなる。そして、いきなり会員がゼロになることもないので事業計画も立てやすくなり、経営基盤も安定して投資も行いやすくなる。着メロの成功をきっかけに上場した会社が数多くあった。こう書くと、それはあくまで提供者側のメリットであって、ユーザー側は不当に搾取されているだけではないか?と思う向きもあるだろう。しかし市場が1社の寡占状態ならばともかく競争状態であるならば、提供者側が潤えばサービスのクオリティやボリュームが向上して、結果ユーザーにフィードバックされるものである。たとえユーザーにメリットがあっても提供者側が儲からなければサービスそのものが終了してしまうのだから。

どうしてここまで着メロが流行ったのだろうか。ひとつ言えるのは「音楽CDの売上が1998年にピークだった」ということである。1991年頃から番組タイアップをきっかけにミリオンが連発し、小室ブームがあり、2000年には宇多田ヒカル浜崎あゆみらがしのぎを削り、世の中において話題の中心が音楽だった、という背景が影響していたことは間違いない。着メロは単なる音楽ダウンロードにとどまらず、学校や飲み会などでのコミュニケーションツールになっていた。着メロサービスはサブスクリプションモデルだったことで、単なる楽曲のダウンロードだけにとどまらず、運営サービスとしてユーザーのニッチタイムの受け皿となった。CDの新曲が発売されて新しい着メロがダウンロードできる水曜日に着メロサイトへのアクセスは急増した。SNSもなく、掲示板やブログがまだPCユーザーのものだった時代に、着メロサイトは多くの人にとって総合エンターテイメントだったのだ。

そんな着メロも着うたを経ていつの間にか下火になり、まだ存続はしているものの世の中の表舞台から消えていった。着メロという機能そのものはスマホになっても引き続き存在しているのに話題になることはないのは、着メロが単なる機能として需要があったわけではないことの証左だろう。当時着メロが担っていた役割はSNSやゲームアプリ、動画共有サイトなどに引き継がれている。

その中で最も着メロの遺産を引き継いでいるのはドワンゴのニコニコだろう。ドワンゴの着メロサイトである「イロメロミックス」は着メロサイトの中で最も実験的な試みを多く行っており、着ボイスではGacktや吉本の起用で話題を作った。サイト運営や著作権のノウハウや、芸能事務所との関係性などは着メロサービスをきっかけにして蓄積されていったものである。姉妹サイトのアニメロミックスがアニメロサマーライブを大きくしていったことも今につながっている。そもそも最初から無料サイトではなくサブスクリプションモデルがベースであるという点が、同じ動画共有サイトであるYoutubeと思想面で全く違うのである。クリス・アンダーソンが書いた悪書「FREE」のせいで、「ネットコンテンツはやはり無料だろう」という反動が起きたが、世界的にもサブスクリプションモデルへの回帰が起きている。世界のスマホアプリマーケットの市場規模において日本が世界最大の市場規模であることも、着メロが築いたネットコンテンツにお金を払うという土壌あってのことだ。

ということで着メロの歴史とその果たした役割についてつらつら書いてみた。歴史の徒花(あだばな)とは片付けられないほど、日本のネットサービスに影響を与えた「着メロ」というものがあったということを記憶の隅にでも留めておいていただけたなら幸いだ。

*1:「着メロ」の商標登録を行ったのもアステル東京で、ゆえにiモード時代に各社は「着メロ」というワードを公式に使うことができなかった

*2:とはいっても機種ごとのカスタマイズも大変で、MIDIデータがあれば着メロがすぐ作れるというわけではなかった

*3:16和音のサービスだからイロメロ(16メロ)というネーミングだが、このセンスは超会議で見て取れるようにドワンゴのDNAのような気がする

夏野さんがやってきた。

iモードの開発をはじめて3か月経った97年7月、夏野剛さんがチームに加わる。夏野さんと初めて会ったのは広尾のイタリアンレストラン「イル・ブッテロ」でだった。最初から最後までまくしたてるように自分のアイデアを話し続ける夏野さんは、真理さんとはまた違った意味で今まで出会ったことのないタイプの人で、ただただ圧倒された。新入社員に毛の生えた僕ですらそうだったのだから、ドコモのほとんどの社員の人は夏野さんにカルチャーショックを受けたに違いない。夏野さんは今のような毒舌キャラではまだなく、眼鏡をかけた細面で柔和な人だが話し出すと止まらない、という感じだった。

夏野さんはハイパーネットというインターネット広告会社の副社長をしていた。インターネットに接続するにはプロバイダ契約が必要だが、ハイパーネットはユーザー属性を把握しユーザーにあったターゲティング広告をブラウザに表示することで無料でインターネットを使える、というビジネスモデルを構築し、ニュービジネス協議会から「ニュービジネス大賞」および「通商産業大臣賞」を受賞したサービス「HotCafe」を展開していた。今も続くネット広告の先駆けであり画期的なサービスだったのだが、残念ながらあまりにも早すぎた。まだまだネット広告市場は小さく成長も緩やかだったのだ。また、ハイパーネットのブラウザをユーザーが自らインストールしなければいけない、という点でユーザーのハードルも高かった。奇しくもマイクロソフトWindowsInternet Explorerをプリインストールすることで一気にNetscape Navigatorを駆逐している時期でもあった。もしハイパーネットのブラウザがOSにプリインストールされることがあれば話は違っていたかもしれない。

ハイパーネットはその後97年12月に倒産することになる。ハイパーネットについては社長の板倉雄一郎氏が『社長失格 〜ぼくの会社がつぶれた理由〜』を書いており、おもしろいので興味ある方は一読されたし。

社長失格

社長失格

夏野さんはハイパーネットで苦労していただけに、携帯電話でインターネットネットサービスという着想は目からウロコが落ちる思いだったらしい。つまり、まだまだ普及していないPCに比べて携帯電話は1人1台持っていること、常時接続でありネットにつなぐのにいちいち回線接続しなくてよいこと、ブラウザがOSにプリインストールされていること、ドコモというキャリアが行うことで回線から端末、サービスまで垂直型のビジネスモデルが構築できること、料金を電話代と併せてユーザーから徴収できることでユーザーのエントリーバリアが低いこと、などなどハイパーネットでの課題をすべて解決できる可能性に充ちていたからである。

夏野さんはもともと新卒で東京ガスに入社していただけに社会インフラを構築したい、という思いが強い人である。出会ってすぐに「ハイパーネットでビルゲイツに会ったときに、ウォレットPC(つまりオサイフPC)をやるべきだという話をしたのにいまいちウケが悪かった。俺は携帯電話でウォレットケータイを実現したいんだ」「ゆりかごから墓場まで。生まれた時に携帯電話の番号が振り当てられて、死ぬ時にオールリセットできたらおもしろい。」といろいろ夢を語ってくれた。それから7年後の2004年、おサイフケータイで夏野さんはその夢を見事に実現する。

夏野さんというビジネス戦略とアライアンスの達人がチームに加わることで、iモードの開発はいよいよ本格的に動き出した。

iモードのロゴにまつわる話。

iモードというネーミングの話を書いたついでにiモードロゴについても触れておく。

ネーミングが決まれば商標を登録する必要がある。この頃はネットで商標登録されているかどうかを即座に調べられるような便利なものはないので、まずは知財経由で商標登録できるかどうかを確認しなければならなかった。せっかく考えたネーミングもどこかで使われていたら水の泡だ。運よく出願したい分類にかぶるようなものはなかったのだが*1弁理士から「そもそも「i」という一般的なものに「モード」をつけて「iモード」と登録することそのものが難しいかもしれないので、ロゴも作って意匠登録も並行した方がよい」とのアドバイスがあり、商標登録の出願手続きをしながらロゴを制作することになった。*2

ロゴもネーミングと同じように当時(今も?)のドコモのセオリーである代理店のコンペという正攻法からはじめたが、真理さんと代理店にどうオリエンしても男性的、未来的、機能的なロゴばかり出てくるので早々に見切りをつけた。これは代理店が悪いというよりも、今までドコモからの発注依頼がそういったタイプのものばかりで、iモードが目指しているようなタイプのサービスが彼らにとって初めて、ということが大きかったのだろう。

そこで真理さんとは旧知の仲である、サン・アドのデザイナーであるナガクラトモヒコさんに依頼することになった。真理さんとはリクルートの「とらばーゆ」ロゴや表紙のデザインなどを通じてのお付き合いである。ナガクラトモヒコ氏の名前は知らなくても彼のアートワークであるおかいものクマ西武百貨店のおかいものクマを知る人は多いだろう。当時サン・アドは改築前のパレスホテルに入っていて、そこで出会ったナガクラさんは理知的でとても穏やかな方でこちらのオリエンもすんなり理解していただけ*3、「なんかすごいものが出てくるに違いない」とワクワクしたことは今でもよく覚えている。

そうして出てきたiモードのロゴは4種類。しかもどれも甲乙つけがたいデキ。これはうれしい悲鳴ともいうべきで、メンバー内で多数決をしても完全に票が割れてしまいほど、どれも素晴らしいデザインだった。数日間ずっと悩んだ真理さんが最終的に決めたのだが、決め手は「プルプルしていてカワイイから」とのこと。僕がいいと思ったロゴはもう少し男性的だったので、今から思えばやはり真理さんの見立てがよかったのだと思う。真理さんは上層部には「この曲線が無線の揺らぎを表現してまして」なんてもっともらしく説明していたが、そのあたりはうまく言ったもので結局「プルプルしていてカワイイから」決まった。

ちなみにナガクラさんが持ってきてくれたロゴはすべて黄色だった。こちらから黄色を特に指定したわけでもなく、ナガクラさんも「別に他の色に変えても構いません」とおっしゃっていたのだが、あまりにも黄色のiモードロゴがしっくりしていて誰も変えることが想像できず、そのまま採用になった。先進的なイメージといえばブルーに代表される寒色系だが、親しみやすいイメージといえばやはり暖色系だ。真理さんが「i」をひっくり返せば「!」になるわよね、とよく言っていたが、黄色は注意・注目を表す色だからそういう点でもしっくりきていたのかもしれない。さらに当時のドコモのCIが赤・緑・青だったので黄色とのバランスもよかったし、当時黄色をイメージカラーにしているサービスもほとんどなかった。なるべくして黄色になったのだと思う。

こうしてできたiモードロゴ。フランスのブイグテレコムでサービスが始まってパリの街中で見かけたり、F1マシンのルノーの車体やドライバーにデザインされたときは本当にうれしかった。ドコモにとってもずっと大切に育てていくべきブランドだったと思うが、それを自らの手で捨ててしまったのは本当に残念でならない。

*1:HOYAがEYEMODEという商標を登録していたが、対象の分類が眼鏡に限定されていたので問題なかった

*2:最終的にiモードの商標はアイモードとi-modeとで登録されている。英字ではハイフンをつけることで登録が可能になった。

*3:真理語を解する方だったからかもしれない(笑)

『iモード』ネーミング秘話。

1997年4月に開発がはじまったiモードだが、ネーミングは難産となった。サービスのネーミングについてはまず社内でブレストをして、「モバイル」の「モバ」を使ってみてはどうか、というアイデアが出た。サービスそのものは「モバ」という接頭語に何でも置き換えられるという意味で「*(アスタリスク)」をつけ「モバ*(モバスター)」という名称にして、モバイルバンキングを「モバンク」、ゲームを「モバゲーム」*1といった具合に派生させていく、というもの。今改めて考えてみるとそんなに悪くないのだが、今と違って当時「モバイル」という単語は世の中にほとんど認知されていなかった。また「モバイル」も「スター」も単語として男性的、先進的で堅いイメージがある。女性やネットを使ったことのないユーザーにも受け入れられるような柔らかいネーミングに真理さんはしたいと思っていたため、とりあえず商標登録出願だけして*2引き続き考えることにした。この頃97年の10月ぐらいである。

社内の次は電通博報堂といったいわゆる広告代理店にアイデアを出してもらうことにした。何案も何案も出してもらい、代理店と幾度となくブレストをしたが、真理さんが首を縦に振るようなアイデアはついに出てこなかった。代理店から出てきたアイデアで覚えているのは「ダイナリー("大なり"から)」「AZBY("AtoZ、BtoYから)」「オスカル("ベルばら"から?)」といったようなもの。確かに今見てもいまいちだ。そうこうしているうちに年が暮れてしまった。

社内やコンテンツプロバイダへの提案資料では「携帯ゲートウェイサービス(仮称)」というのがずっと使われていた。夏野さんは提案先から何度となくサービス名を聞かれいい加減シビれをきらしながらも、真理さんが納得するまでやってください、と一任して、真理さんと僕とでうんうん考える日々が続いた。

真理さんがニューヨーク出張から帰ってきたある日。確か98年の2月か3月ぐらいだったと思うが、虎ノ門にある本社から神谷町のオフィスまで真理さんと歩いている時に、突然「栗ちゃん、アイよ!やっぱりアイがいいわ!」と真理さんが言った。真理さんは自分の頭の中ですべての世界が完結しているので脈絡なく唐突に話がはじまるのだが、この1年真理さんとずっと一緒に仕事をしてきた僕はさすがにこれに慣れていた。これを夏野さんは「翻訳スキル」と呼んでおり、真理語の翻訳スキルはゲートウェイビジネス部ではかなりの必須技能である。ドコモの他部署の人やメーカーの人はこの真理語に相当悩まされた。それはさておき、ネーミングのことだ。聞けば真理さんは海外出張でインフォメーションカウンターに「i」のデザインがアイコン的に使われていることに着想して、新サービスのネーミングは「i(アイ)」がいいと言うのだ。もうすでに真理さんの中では「i」をアイコン化したイメージまで浮かんできているらしい。

確かに「i」にはいろんな意味が込められるし、コンシェルジュというサービスコンセプトにもしっくりくる。端末に「i」のアイコンが入っている姿も想像できる。僕は諸手を挙げて賛成したのだが不安もあった、というのもドコモはもともと通信キャリアで伝統的にセンスがない部類の会社である。サービス名を「i(アイ)」にしたら間違いなく「iサービス」と言ってしまうだろう。それはちょっとダサい。それに百歩譲ったとしても「i(アイ)」だけではあまりにも一般名称かつ短いため、現実的に商標が取れないのである。ということを真理さんに伝えたところ、「じゃあ、栗ちゃんが考えて」となった。

「i」は決まった。あとは「i」という単語に何かしらプラスすればいいのだ。それから毎日、ネット、広辞苑、英和辞典などから単語を拾い出しては「i」と組み合わせて検討する日々がはじまった。毎日、その日考えた中でベストな案を真理さんに提出していく。2週間ぐらいボツを食らい続けただろうか。飲み会で聞いた「お疲れモード」という「モード」と「i」を組み合わせたものを真理さんに提出した時、初めて真理さんが首を縦に振ったのである。ネーミングの検討を開始してから半年以上経っていた。

iモードの名称の由来は後に真理さんが「私(I)のi、インフォメーションのi、インタラクティブのi、インターネットのi、に由来している」と語っているが、経緯的にはこのようにして生まれた。ネーミングには「濁点」か「半濁点」が入っていると引っ掛かりがあって印象に残りやすい、日本人は俳句・短歌文化由来で5文字か7文字が馴染みやすい、と真理さんが教えてくれたネーミングのコツに「iモード」がともに当てはまっているところもよかったのだと思う。それに加えて、真理理論によれば名前から受けるイメージはその「音(おん)」によるところが大きいとのこと。具体的な例を挙げてみると、

子音がmの擬音には
まんまん
むんむん
むくむく
めろめろ
もりもり
などがあるが、共通するイメージは「肉感的」である。

子音をsにしてみると
さらさら
さくさく
しんしん
すやすや
そよそよ
で「爽やか」「静的」なイメージを受ける。

rだと
らんらん
りんりん
るんるん
など「弾んだ」「丸い」イメージがする。

真理さんはiモードのコンセプトとして「デジタルだけどあたたかいもの」とつねに言っていた。iモードという名称に肉感的な「m音」が入っているというのもポイントだったのだろう。いずれも後付けといってしまえば後付けかもしれないが、「とらばーゆ」を初めとする真理さんのネーミングノウハウの蓄積が真理さんの「直感」という形で働いて生まれたものなのだ。

iモード」という名称が決まって数か月後、僕は真理さんの「直感」の凄さに驚愕することになる。1998年5月11日、アップルが『iMac』を発表したのだ。その後『iPod』を経て『iPhone』になったのは周知のとおり。全く同時期に生まれた2つの「i」、今振り返ってみると非常に感慨深い。

*1:あれれ?どこかで聞き覚えのある名称だ(笑)

*2:iモードが決まったのでその後手放したと思う