1994年の就職活動 前編

1994年春。栗田青年は大量のハガキを書いていた。ハガキ職人だったわけではない。30代後半以上の方はお分かりだと思うが、当時は企業にハガキを送って資料請求し、応募書類を取り寄せた上でエントリーするというのが一般的な就活の姿だった。リクナビマイナビといった就活サイトはもちろん存在しないが、各企業に送るためのハガキセットという通販のカタログのように分厚い本がリクルートや毎日から大学生の自宅に届いていたものだ。

この年就活する1972年生まれというのは団塊ジュニア世代であり、日本の人口ピラミッドにおいて突出した存在感を誇っている世代であり、いわゆる厳しい受験戦争を戦った世代なのである。そんなつねに競争にさらされる世代の運命か、就活においてもバブル崩壊後の就職氷河期に放り出されてしまうのであるが、彼はよく言えばポジティブ、悪く言っても能天気な青年なので自分がそんな大変な状況だとは深刻に考えてはおらず、ただ「毎日大量のハガキを書くのしんどい」と愚痴りながら大量のハガキと格闘していた。「汚い字や修正液を使ったものは悪印象」という手書き時代のジンクスもあり、ハガキ1枚履歴書1枚にかなりの時間がかかったものであるが、そんな努力はほとんど意味がないということは大人になってからでないと分からない。

1994年は就職協定が廃止になる直前であり、7月1日より前の就職活動というのが禁止されていた時代だった。就職協定というのは、企業側が優秀な学生を早期確保するために就職活動を早めると学生が学業に専念できなくなるという学校側の都合により、就職活動の開始を一律にしようという目的で企業と大学間で結ばれた自主的な協定である。制定は1952年と相当古い。とはいえ就職協定を破り抜け駆けで優秀な学生を採用する、いわゆる「青田買い」というのが通例で、優秀な学生を青田買いで確保した企業はその学生が他社に流れないように学生を物理的に「拘束する」ということが現実的には横行していた。「拘束」と言うと聞こえが悪いが、バブル期はそれが旅行だったりディズニーランドだったりとオイシイ思いをした学生が多かったと聞く。

ハガキを書いて資料請求をして会社説明会にエントリーする、というのはいわば合法的な表門からの就活であり、会社説明会の開始が7月1日以降というスケジュールということもあって、だいたい2月3月頃からハガキを書き始めるのが一般的で今と比べるとずいぶんノンビリしていた。とはいえ裏口の就活であるOB訪問は4月くらいから始まって就職活動解禁の7月1日前には内々定が出る、という裏口ゆえに全くの別スケジュールなのだが、三流私大の栗田青年には縁もゆかりもないことであった。裏口でエントリーできる学生は企業にコネのある有名ゼミか一流大学の学生にしか門戸が開かれていなかったからだ。

リクナビマイナビもない時代、ハガキも履歴書も全て手書きゆえに時間もかかり気軽に大量にはエントリーできないので、今以上に業界・業種を絞るのが一般的だった。栗田青年の第一希望は移動体通信業界。携帯電話はかなり高額で全く普及していなかったが、彼はたまたま大学時代でバイトをしていた四谷大塚という中学受験塾で携帯電話を使う機会があり、その将来性に早くから着目していた。なんて言えば聞こえがいいが便利でスゴイものだからというシンプルな理由だけが志望理由であり、それでもその実感を普通の人よりもほんの少し早く得ることができたのは今から考えればラッキーだったとしか言いようがない。四谷大塚では中学入試の合格発表に立ち会って本部に塾の合格者を報告する、というとても楽チンでおいしいバイトがあり、それには携帯電話が貸与されていた。公衆電話に長蛇の列ができる中、合格発表の掲示板を見ながら携帯電話で直接本部に発表者を伝えるという体験は彼に大きな驚きをもたらした。「何だこれすげー便利!」その驚きは感動的ですらあった。「今はお金もかかるし大きくて重たいけど、10年ぐらいしたら安くて小さくなってみんな持つようになるんじゃない?」実際には10年もかからず携帯電話は普及してしまうのだが、1993年春にこの体験をしていなければ彼の人生は違う意味で大きく変わっていたことだろう。

移動体通信業界といえど、1994年に開業していたのは日本移動通信IDO)とNTT移動通信網(DoCoMo)の2社だけ。それに1995年の開業を控えて新卒一期目を募集していたTu-Kaデジタルホン、併せて4社が就職活動先となった。もちろん4社だけでというのは少ない気がしてNTT、日本国際通信ITJ)、国際電信電話KDD)といった固定通信の会社も加えた。他にはプレイステーションとサターンという次世代ゲームハードの発売を1994年暮れに控えたゲームプラットフォーマーがおもしろそうだと感じていた。彼がゲーマーだったからだ。最後に父と同じ保険業界。全く興味の薄い業界ではあったが、父の仕事と同じ業界を受けるというのは彼にとって親孝行のような感覚だったのではないだろうか。

就職氷河期という時代の中、栗田青年の就活がはじまる。


バブル期の就活といえば主題歌の槇原敬之『どんなときも』がヒットした『就職戦線異状なし』が懐かしい。半沢直樹が産業中央銀行に入社したのもこの頃。ただ1991年映画公開時はすでにバブルがはじけていた。

絵文字の話を書こうと思ったのに気づいたらなんだか壮大なことに・・・。