1994年の就職活動 後編

1994年夏は観測史上最高の猛暑となり、風呂もエアコンもない茹だるようなアパートに住む栗田のヒットポイントを根こそぎ奪っていった。追い打ちをかけるように企業のお祈り攻撃によってマジックポイントまで奪われ、つねにステータスウインドウがオレンジな状態での就活を余儀なくされた。唯一の救いは当時発売されたばかりの形状記憶シャツによってクソ暑い部屋でアイロンがけしなくてよいことぐらいである。

就職協定によって7月1日まで会社説明会をしてはいけないことになっているので、当面の就職活動はOB訪問だった。前回、三流私大に青田買いは縁がないと前回書いたが、それでもNTTをはじめ一定規模の学生を採用する企業からは多少のお声掛けがあった。お祈りばかりだったが。そうこうするうちに7月に入って会社説明会が始まり、就活が(表面上は)本格化するわけだが、大半の学生はOB訪問という裏門からすでに内々定を取ってしまっているため、栗田としては狭き表門をなんとかしてくぐり抜けるしかなかった。このタイミングで放映されていた、就職内定して夏休みをエンジョイする学生を描いた月9ドラマの筒井道隆主演『君といた夏』が焦る気持ちにさらに拍車をかける。

当時、移動体通信業界のリーディングカンパニーはドコモではなくIDO(現KDDI)だった。オッサン向けに宅麻伸を起用して島耕作のCMをしているドコモよりもまだ20代だった安田成美のCMのIDOの方がスタイリッシュなイメージだったし、日本独自のHiCAP方式のムーバよりも北米標準のAMPS方式のタックスミニモの方が将来性があるように感じられたこともあって第一志望はIDOだった。IDOは他社よりも会社説明会が早く、品川のコクヨホールで行われた。ただSPIの結果がよくなかったのかIDOから次のステップへの連絡が来ることはなく、早々に栗田の第一志望への道は潰えた。

ドコモの会社説明会は今は亡き虎ノ門パストラルで行われた。神谷町から虎ノ門パストラルに向かおうとして何をどう勘違いしたのか逆方向の御成門まで下ってしまい、もし間違いにそこで気づかずしかもあの坂道を全速力で走っていなければ、会社説明会には間違いなく遅刻していた。瀬尾公治のマンガだとこういうタイミングで女の子に遭遇するはずなのだがリアルなのでそういうことは起きない。ただ人生の別ルートへのフラグを危うく立てそうになったことだけは間違いなかった。

SPIを無事に通過し、1次面接は若手社員、2次面接は先日までドコモの取締役常務執行役員であった田中隆さんと、ともに1対1の面接だった。田中さんは非常に感じがよい方で話のフィーリングも合い、自分の中でドコモの印象がかなり上がった。今や採用する側だから分かるが、就活は採用側と学生とのフィーリング次第というのは今も昔も変わらない。携帯電話もインターネットもない当時、就活における必需品は留守番電話で、留守電のメッセージを聞いて企業に折り返し電話をかけて連絡を取っていた。ドコモの保留音は当時ポケベルのCMソングだった久宝留理子の『早くしてよ』だったのだが、この歌のサビの「早くしてよ。何してるのよ。何様のつもりなの!」という歌詞が受話器から聞こえるたびに、そんなユルいドコモが好きになった。今なら間違いなくソーシャル上で炎上しそうな話ではある。

ドコモの最終面接はセガの2次面接と同日だった。セガで面接までに1時間30分以上待たされてしまい、やむを得ずセガの2次面接を辞退してドコモの最終面接に向かった。ドコモの最終面接は役員面接で1対6。どんな役員の方がいらしたのか今となっては全く覚えていないが、1人ずっとニコニコ笑顔を崩さない役員の方がいらしてそのおかげでかなりリラックスできたことと、「実家に帰らず東京で就職されても大丈夫なのですか」という質問に「故郷は遠きにありて思ふものですから」と答えたことだけはよく覚えている。

結局、遅刻しそうだった会社説明会から2週間足らずでドコモから内定をもらうことができ、栗田青年の就活は幕を閉じた。めんどくさいのでドコモと書いているが当時はNTT移動通信網株式会社という社名で、家族も親せきも周りの友達もNTTの関連会社に入ったぐらいの認識しかないぐらいマイナーな会社だった。個人的には「網」の部分が結構気に入っていたが。

ちなみにこの年のドコモ(中央)の新卒採用200名に対して会社説明会組はわずか10名だった。