ドコモ新入社員時代 後編

お客様対応に明け暮れているうちに新入社員1年目はあっという間に過ぎた。入社2年目となる1996年には販売代理店であるドコモショップの展開がかなり進み、支店の窓口には多少の余裕が出てきた。そこで僕は支店の法人営業担当に異動となった。法人営業担当といっても兼務の部長1人に定年間近の課長1人、僕と同期の女の子、たった4人の小さな部署だ。そこでは社用車を使って官公庁や大口顧客の御用聞きやドコモショップの支援をするという日々が待っていた。ドコモに入るまで千葉県とはほとんど縁がなかったが、法人営業に配属されて千葉がとても広い県であることを知る。銚子や館山に出かけるとほぼ1日終わってしまうからだ。

それはさておき、ドコモの初代社長大星公二さんは先見の明の持ち主で、携帯電話が普及し始めた96年の時点ですでに「ボリュームからバリューへ」というスローガンを掲げ、携帯電話市場が飽和する前に当時の収入のほぼ全てであった音声収入とは別にデータ通信という新たな収益源を生まなければならないと考えていた。好業績時の利益を内部留保や配当に使ってしまうような短期的な視野の会社が多い中、未来への投資をしようとしていたのだ。そのため本社に「モバイルコンピューティング部」という部署が新設されデータ通信用の機器やサービスを開発するとともに、支店に対しても9600bpsのデータ転送を活用したモバイルFAXやデータ通信用のモデムを、まずは法人に対して売り込めという指示が飛んだ。

Windows95が発売され、なんとなくインターネットという存在があるということは知られてきてはいるものの、支店にあるWindowsマシンはたった数台。仕事はほとんどオアシスというワープロ機とFAX、固定電話でする時代。当然電子メールなんてない。パソコンを使いこなせる社員も支店にほとんど存在しなかった。こんな状況で本社の指示に対応できるはずもなく、そういうことは若い人間がいいだろうから新人社員にやらせよう、ということになり僕に白羽の矢が立った。僕が支店で抜群の働きをしていたから、とか将来有望そうだから、という理由では決してない。千葉支店の四大卒で法人営業の男性が僕1人だけだったからだ。

パソコンやインターネットに関することに予算がつき、僕はネットと遭遇することになる。僕はゲーム大好き少年だったがファミコンを買ってもらえなかった。ただ家が自営業ということもあってPC-9801VM*1が家にあった。もともと戦略系のゲームが好きだったこともあって大戦略や光栄の歴史シリーズなどで遊んでいたのだが、大学生で上京後はパソコンが高価だったことや一人暮らしでコンシューマーゲーム機を買ったこともあってパソコンから遠ざかっていた。パソコンが使えます、と言ってもできるのはゲームとフロッピーのフォーマットである。

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最初に買ったパソコンはシャープのメビウスだった。シャープのパソコンといえばX68000という世代であり*2なんとなく選んだ。NIFTY SERVEにも加入してパソコン通信にもチャレンジしてみた。パソコンについて教えてくれる先生もいないのでほぼ独学である。ところがこのパソコンやインターネットという代物と縁のなかった文系の僕にとってはとにかくチンプンカンプンなのである。まず最初に分からなかった用語は「プロトコル」だった。パソコンの解説書で意味が分からない用語を調べるとさらに意味の分からない用語にぶち当たるという有様で、それなりに使いこなせるようになるまでにはずいぶんと時間がかかった。サイトを見るのにはブラウザが必要でブラウザを立ち上げてヤフーなどの検索エンジンで検索しなければならない、と今では笑ってしまうほど当たり前のことすら分からなかった。そういえば当時はホームページ*3を紹介したムックが本屋に並んでいて、そのサイトを見るために記載されているURLを直打ちするという今では信じられないような時代だった。

そんなこんなでパソコンやネットをそれなりに使えるようになったのだが、ネットとメール、そしてNIFTY SERVEのフォーラム(コミュニティ)は目からうろこが落ちるほど新鮮な驚きだった。こんなに便利で楽しいものは必ずみんなが使うようになるに違いない、と学生のとき携帯電話に感じた可能性と同様な思いを持った。パソコンに詳しくなったからといってデータ通信関連の商品やサービスが売れるわけではなかったのだが、会社のお金と勤務時間でネットに遭遇させてくれたドコモ千葉支店には感謝しても感謝しきれない。

その後、本社から支店にLANを構築すべしというお達しがきて僕が担当することになり、多少なりともお返しをすることができた。その頃、学生時代のバイト仲間で一年留年して後からドコモに入社してきた親友の伴拓影くんが「これ知ってる?」と僕に教えてくれたのが「ゲートウェイビジネス部の社内公募」のお知らせである。

榎さんの記事から公募文書を以下引用。

「マルチメディアやインターネットの時代には、ユーザーとコンテンツやアプリケーションの仲立ちをして情報流通を促進するサービスとして『ゲートウェイビジネス』のマーケットが出現してきます。モバイルの世界でも同様です。例えば、高機能携帯電話を用いたショートメールによる情報提供やイントラネットとの接続等です。このようなモバイル・コンピューティング・マーケットの創出とそれに伴うトラフィック増進を図るため、法人営業部では、今春ゲートウェイビジネス業務を新規に立ち上げます。そして、本業務を成し遂げるためにはチャレンジブルな人材を必要とするため、今回、広く社内から人材を公募することとしました。志のある社員の皆さん、老若男女、職位を問わず活発なご応募をお待ちしております!

【業務内容】

  1. 事業企画業務:事業コンセプト作りや事業計画の作成や管理。
  2. マーケティング業務:サービスやコンテンツの企画、コンテンツ・プロバイダーや広告主の開拓。
  3. プラットフォーム業務A:ドコモ網の改造仕様、課金、端末仕様の設計。
  4. プラットフォーム業務B:サーバーのシステム設計

この公募文書には衝撃を受けた。読んだとき「これしかない!」と思った。”携帯電話とネット”僕をワクワクさせてくれたこの2つを結びつける仕事。こんな仕事がはじまるなんて願ったり叶ったりだ。なにはともあれ選考にはまず小論文審査があるということで小論文を書いて提出した。伴くんは技術系で本社の通信技術部配属だったこともあり本社の発信情報に対して感度が高かったことが幸いした。千葉支店の僕までその情報は入ってこなかったので、彼が教えてくれなかったら間違いなく今の自分はない。半沢直樹でいえば渡真利忍的なグッジョブであり、本当に感謝している。

小論文は自らの体験から、ネットを初心者が使うにはとにかくハードルが高いのでもっとエントリーバリアを下げて誰でも使えるようにしたい、というようなことを書いた。小論文の考査に通って面接があるということで本社まで出かけた。当時ドコモの本社は虎ノ門新日鉱ビル(現虎ノ門ツインビル)にあった。私の恩師となる榎啓一さんは大星社長からiモードの立ち上げを命じられるとともに本社の法人営業部長となっており同じ法人営業ということもあって初対面ではなかったが、面接は榎さんの隣に座るエリートサラリーマン然とした眼光鋭い男性とのやり取りに終始した。彼がマッキンゼーの横浜信一さんということは後で知る。榎さんの記事ではこれが「圧迫面接」だったと書かれている。確かに話した内容から次の質問、次の質問と矢継ぎ早にされたことは覚えているが、圧迫面接というストレスを感じた自覚はなかった。榎さんのメモによれば映画の上映情報やオリコンチャートなどを携帯端末に流すことを提案したらしい。榎さんに聞くまですっかり忘れていた。

何日かたって直属の上司から呼び出されて「どうして勝手に公募なんてしたんだ」と叱責された。ドコモでこの手の社内公募は例がなく、プロジェクトが社長直轄ということもあってかなり絶対的な人事異動だったということだが、いきなり何の相談もなく若手を本社に奪われることは支店としてはかなり不本意だったらしい。特に支店から本社への配属は最低でも入社3年目以降というのが通例でこの手の慣例を重んじるNTTの体質的にこの公募は社内ではかなり不評だったようだ。とはいえ、あくまで前例がないということへの反発であって僕をどうしても手放したくない、ということではない。支店にとって僕はなんとなくパソコンには詳しいが、何をやっているかよく分からない新入社員、という評価でしかなく、最終的は新設されるゲートウェイビジネス部へ配属されることになった。

ゲートウェイビジネス部に配属されて榎さんに「どうして僕は受かったんですか?」と聞いたところ、「君はNTTグループ社員らしさということでは標準偏差のカーブのどちら側かは分からんが間違いなく平均的な社員ではないだろう。ドコモの本業はNTTグループらしい社員にしっかりやってもらわないと困るからだよ」とニヤリと笑って言った。


織田裕二を起用した当時のドコモのモバイルコンピューティング推しのCM。正直こんな使い方をしている人はほとんどいなかったと思うw

*1:PC-9801VMは名機と言われかなり寿命の長い機種だった

*2:コンプティークを愛読していたのだ

*3:本来ホームページとはブラウザでホームに設定したページであって、サイトそのものを指す用語ではないのだが「ホームページビルダー」などのせいでホームページ=サイトと認識されていた