ドコモ新入社員時代 前編

1995年春、晴れて僕はドコモに入社した。当時ドコモはサービスブランド名であって社名ではなく「NTT移動通信網株式会社」に入社したと言うのが正しい。ただし、長いので便宜上以後ドコモとする。ちなみに競合のIDOの正式名称は「日本移動通信株式会社」だ。「移動通信」というのが業界用語だったことが分かる。ドコモ(DoCoMo)という名前は「Do Communication over the Mobile network(移動通信網で実現する、積極的で豊かなコミュニケーション)」の略だが、もちろん後づけで、移動体通信の最大の特徴である「どこでも」をもじったものだ。僕はこのネーミングはかなり気に入っていたし、堅さと柔らかさが同居している当時のCIも好きだった。ついでに言うと社名の最後の「網」というのもなんとなく可愛くて好きだった。

↑2008年までのコーポレートロゴ

当時のドコモは全国1社体制ではなく、本社・開発機能および関東甲信越を管轄とするドコモ中央と北海道、東北、東海、北陸、関西、中国、四国、九州の8つの地方販社とで構成されており、僕はドコモ中央の入社だった。NTTグループは入社の年次で同期を呼ぶ慣習があり、僕はゼロナナ入社組、ということになる。ゼロナナは全国で200人、中央が100人、そのうち技術系50人、業務系50人だったと記憶している。*1まずは仙台のNTTの研修センターで全国合同の新人研修があり、その後東京でドコモ中央の新人研修、そして配属というスケジュールだった。

95年春の入社当時、携帯電話の加入数は全国で1000万台足らず。ドコモの会社としての知名度もかなり低く、家族も親類も僕がNTTに入社した程度の認識しかなかった。ところで奇しくも入社した95年というのは携帯電話の普及において大きな節目の年となる。理由は3つ。それまでレンタル契約しかなかった携帯電話に買い取り制度が導入されたこと、95年1月に起きた阪神淡路大震災によって有線インフラに壊滅的な被害が発生し無線の強さが見直されたこと、規制緩和によって通信キャリアがドコモ、IDOに加えてデジタルホングループ(現ソフトバンクモバイル)とツーカーグループが参入して4社となり競争の激化とともに各種料金の値下げが行われたことである。

買い取り制になったとはいえ、それでも加入料金が3万強、端末代金が6万強で携帯電話を買うのに10万円ほどかかり、月々の維持費も1万円以上かかる時代に加入数が1年で倍の2000万台になったのだから、現場のオペレーションは混乱を極めていた。*2当時はまだ販売代理店であるドコモショップも黎明期であり店舗数が少なく、ドコモの各支店にある直営店が旗艦店としての役割を担っていたが、連日満員で2時間待ち、3時間待ちは当たり前。さらに輪をかけたのがポケベルの普及で、この年発売されたカナを送信できる「センティーシリーズ」が大ヒットしたこともあって窓口は人で溢れていた。それに対応するため、95年入社の同期のうち技術系採用でない業務系の社員のほとんどがこうした直営店に回され、僕は千葉支店の窓口へと配属になった。

千葉支店の窓口ではおじさんに携帯電話を女子高生にポケベルを売る毎日。当時、携帯電話を持っているお客様にはその筋の方が多く、「お金は払えないがとにかく電波停止している携帯を使えるようにしろ」と怒鳴り込むお客様に丁重にお断りしたら「帰り道に気をつけろ!」と言われてしまい上司に護衛されて退社したりとか、「刑務所に入っている人名義の携帯電話を譲渡したい」というお客様に「刑務所におられる方から代理人の委任状をもらってくるよう」にお願いしたりとか、自動車電話のアンテナを取り外すときに後で問題にならないように車の写真をたくさん撮ったりとかいろんなことがあった。「いい番号で契約するまで窓口を動かない」というのも多かったが、こういうときのために支店では警察のOBの方に顧問をお願いしていてその筋の方にはその筋の方に対応していただくみたいなことが日常的にあった。*3

当時ちょうど第一世代の携帯電話(アナログ)と第二世代の携帯電話(PDCデジタル)とが混在している時代。会社としてはデジタル推しだったのだが、まだまだエリアがアナログほどカバーできていないこととアナログと違ってブツっと切れてしまうことなどが不評で、特に千葉エリアは山あり海ありでデジタルを勧めた結果よくクレームになったりしたため、窓口での説明には苦労した。アナログが何のことかよく分からずに「アナクロの携帯電話をくれ」と言ってきたり、HYPERという通信速度9600bpsの機種*4を「ハイパワーなやつくれ」と言うおじさんがたくさんいて毎回吹きそうになった。

そんな中、発売されたデジタル・ムーバPII HYPERは大ヒット商品となり、特にシャンパンゴールドはその筋の方中心に大ヒット。ずっと黒色やグレーが当たり前だった携帯電話に突如ゴールドが出てきたインパクトは大きかった。これはこれで品切続出のためお客様対応が大変で窓口の新たな悩みの種だったが。
後継機のP101のシャンパンゴールド

ノキアモトローラといった海外の端末が発売されたのもこの頃。支店でたくさん売るべしとのお達しが出たものの、なかなか売れなかった。ただモトローラは付属品などが海外と共通で日本で買う方が安いということで中国の方が電池パックだけ大量に買われるということがあった。端末の人気は松下がずば抜けており、次いで三菱、NEC富士通、といった順だった。

殺伐とした携帯電話の窓口と比較してオアシスだったのがポケベルの窓口。女子高生や若者がメインでヘビークレームもほとんど発生せず、ポケベル窓口担当のときは朝から心が平穏だったものだ。ポケベルを開通させた確認としてお客様にお渡しするポケベルを鳴らす導通試験というものがあったのだが、気の利いたメッセージを送ると喜ばれたりしたので、そこで僕はいわゆるベル打ちスキルを身に着けることができた。ダイヤルにブラインドタッチで自由にメッセージを入力できるまで上達したのだが、これは初期のiモードの端末の文字入力に「ポケベル入力方式」という仕様として導入するきっかけになったので無駄ではなかった。

毎日朝から晩まで途切れることのないお客様の対応をすることは本当に大変だったが、どんなお客様がユーザーなのか、というのを身をもって知ることができた上に、自社の製品やサービスを総合的に把握できるという体験は今考えるととても貴重だったと思う。入社したらまずは現場へ配属、というのは日本企業によくあるパターンで泥臭いと言われるが、これは決して間違いではない。


ドコモのポケベルCMといえば広末涼子というイメージしかなくてみんな忘れてると思うが、広末涼子のCMは96年からで入社当時の95年のCMキャラクターは葉月里緒奈だった。

*1:ひょっとしたらそれぞれその倍の人数だったかもしれない。

*2:当時の携帯電話はとてつもなく高いものという印象だったのだが、加入料金はともかく端末代金6万円の維持費1万円って今とたいして変わらないことに気づいて驚いた。ドコモショップで2時間待たされるのもあまり変わっていない。

*3:今は違います。

*4:1秒間に1.2kbyte送れるということだが今考えると隔世の感がある。