『君の名は。』の成功は、オタクの理想の女性像を封印したことにある。

新海誠監督作品を2002年の『ほしのこえ』から見続けている人間として、『君の名は。』は本来なら封切直後に見に行くべきものだったが、『秒速5センチメートル』以降の作品によるトラウマによって見るのが怖かったのと多忙とで、劇中で瀧くんが奥寺先輩とデートしていたとされる2016年10月2日にようやく見ることができた。

同じく『秒速5センチメートル』ショックを受けた友人たちから「今度は安心して見られる」という重要な情報と、ネットから否応なしに入ってくる「男女入れ替わりがモチーフである」という情報、そして興収100億円突破、つまり世の中的に作品として大成功をおさめたという情報以外の事前情報はなるべくシャットアウトして素直に見たのだが、これがとてもおもしろかった。

新海監督作品は前作の『言の葉の庭』で興収2億円弱、『秒速5センチメートル』で興収1億円程度でしかなく、それが日本のアニメ映画としてジブリ以外で初めて興収100億円を超える大ヒットとなった理由はなんだろうというのを見終えてからずっと考えていた。ネット上では「東宝が配給したから」「もののけ姫作画監督が携わっているから」「RADWIMPSのミュージッククリップとしてのデキがよかったから」という意見が散見されるが、僕は今作で新海監督が自らの理想の女性をキャラクターに投影することを封印したことこそに成功の本質があると思っている。

オタクの特性として「理性の女性像を自らで構築して、それを追い求めている」というものがある。それは男性にとって都合の良いリアルには存在しない女性像である。こういった男性視点の女性像を求めることは童貞臭いとも言われ、女性から「気持ち悪い」と言われる一般的に非常にウケの悪いものだ。大抵のオタクはそれはあくまで「観念的なもの」であり、そんな自らにとって都合の良い女性が現実にいるわけもないことは分かっているので、その代償を二次元やヴァーチャルな世界に求める。新海作品は一見、キャラクターの造形によるオタク的な記号性(必要以上に大きい胸など)はないように見えるのだが、むしろキャラクターの内面の部分においては濃厚にオタク的な理想が追及されていると言ってもいい。新海監督作品はそういう理想の女性像を求めながら、それを「理想ゆえに決して手に入らないもの」と作品の中で明確に示してしまったこと、つまりあえて突きつめなくてもいい現実を突きつけてしまったことが、オタクたちに前述の『秒速5センチメートル』ショックを与えた大きな要因でもある。

今作の主人公である瀧と三葉は、キャラクター付けとして非常にフラットで一般的な存在である。東京という都会に暮らす高校生と、鄙びた地方に暮らす高校生に共通する性格づけはなされてはいるものの、キャラクターそのものの個性やそれを語るためのエピソードは極力排されている。またオタク特有の性的な嗜好性を感じさせる描写も極力排されている。(唯一あるとすれば口噛み酒なのだが、そこは今作における監督の最後の砦なのであろう)瀧が三葉に入れ替わって胸を自分でもむシーンは健康的な思春期の男子ならごく当たり前の行為であるし、瀧が憧れる奥寺先輩も思春期の男子が憧れるステレオタイプな女性像であり、オタクにはウケの悪いであろう煙草を吸う描写を見せることや黒の下着を身に着けていることは、むしろ奥寺先輩をリアルな女性として描くことに成功している。瀧においても過去作の主人公のような特殊な(得てしてオタクっぽい)スキルや能力は持ち合わせていないし、2人の友人たちも特にオタクでもヤンキーでもない。

瀧と三葉は最終的には恋に落ちるわけだが、最初からそうだったわけではない。もちろんお互い好みの顔であった可能性はあるのだが、作中で最初から相手を好意的には表現していない。それが最も分かりやすいのは、三葉が瀧に会いに行き、電車で出会うシーンで瀧が最初三葉を拒絶するシーンである。もちろん瀧が奥手で子供だからというのはあるだろうが、電車で女性から話しかけられて好意的な反応をしない、というのはリアリティがある。彼らは最初から理想の相手を求めていたわけでもなく、最初から惹かれあっていたわけでもなく、相手との接触時間が増え、相手が気になりはじめ、ドラマチックな体験を共有したからこそ恋に落ちたのである。(作品ではそれを結びと表現している)そこに理由はなく、これはあくまでもリアルの恋愛のプロセスそのものである。

新海作品の「男性と女性との心の距離」というテーマはほぼ全ての作品に共通しており、『君の名は。』でもそれは一貫している。『君の名は。』が大ヒットできたのは、「オタクの理想の女性像」を封印して誰もが感情移入できるメタ的なキャラクターで物語を展開することで、もともと持っていた新海監督の才能をうまく引き出し、客層を飛躍的に広げることに成功したからである。作画監督安藤雅司、「心が叫びたがってるんだ。」のキャラクターデザインの田中将賀、そしてRADWIMPSは、オタク的な要素を排除するために必要だっただけであり、マスに受け入れられると判断したからこそ、東宝が配給を決定したのに過ぎない。

新海作品では「喪失」がひとつのテーマであったが(ご本人にも以前直接確認したのだが、個人的には村上春樹的なこじらせ方をしていると思っている)、今作で瀧と三葉がお互いを見つけたように、新海監督も今作で喪った何かを見つけたのかもしれない。次回作が試金石になるだろうし、そのプレッシャーはものすごいとは思うが、今は「君の名は。」の大ヒットおめでとうございます、と昔からのファンとしてはお祝いを申し上げたい。もしこの作品を感受性豊かな10代の頃に見ることができたならば、それは一生心に残るようなものになるだろうし、そういう点で今の10代がうらやましいと思った。


−以下は、まとまりのないまま、思いついたことを書き並べていく。

新海監督の強みは客観的な現実を主観的に描くことである。目に見える夕陽や月の美しさをカメラで撮ったとき、あまりに目で見ている風景と異なるものが写っていることにガッカリした体験は誰しもがあるが、それらの美しい風景は目で見ているのではなく脳で見ているからである。新海監督はありふれた現実の風景を非現実的に描くことで、より脳や心に訴えかける作品作りをしてきたが、それがInstagramのフィルターや写真の画像加工で現実を非現実に加工している10代の心を強くつかんだのではないだろうか。僕は地方出身で大学に通うために上京してきたが、東京に出てきてまずしたことは完成直後の都庁を真下から見上げることだった。新宿の高層ビル群は地方出身者にとって現実でありながら、非現実的なものの象徴であり、都会への憧れの象徴である。今作で新宿の高層ビル群が登場するが、長野出身の新海監督にとってもそれは同じ存在だったのだろう。東京に長く住んでいるとそういうことを忘れてしまうが、改めて何気ない普通の風景の美しさというものを新海作品に気づかされた。そしてこれだけたくさんの人がこの映画を見たことで、今後はこの新海監督の絵(美術)を見るだけで「これは新海作品である」と認知されたことは、今後の彼にとって何よりの財産になったのではないだろうか。

男女の入れ替わりとタイムリープはSFではよくあるモチーフだが、それらを組み合わせたことと、これはネタバレになるので伏せるが、瀧と三葉という主人公の2人が信じていたことはもちろん感情移入した視聴者も信じていたことで、それを同時に裏切って見せたことは仕掛けとしておもしろかった。一度見ただけでは情報量が多くて理解するのが難しく、何度見ても楽しめるつくりの映画が最近は多いが、今作もネタバレ前と後とで少なくとも2回は楽しめる作りだと思う。ただ、そもそもいろいろと矛盾のある設定だとは思うのでオタク的な追及に耐えられる作りにはなっていないし、それを求めるような作品ではない。

君の名は。』と同名の『君の名は』という1950年代を代表する映画がある。こちらも男女が不都合が起きてなかなか会えない、という話で、この「会えそうで会えない」という繰り返しはその後の恋愛ドラマでよく使われた演出の古典のひとつであるが、携帯電話の普及によって演出の難易度が格段に上がった。新海監督は一作目の『ほしのこえ』から、携帯メールを地球と宇宙でやりとりするのには時差があるということで果敢にこの演出に挑戦していたが、今回はタイムリープによって実現していた。男女がなかなか会えないというすれ違いをストーリーの軸にするためには、SFの力を借りないともう無理なのかもしれない。

これは完全に余談だが、糸守町は岐阜県の飛騨地方にある設定ということで僕の出身県と同じ岐阜県ではあるが、出身の大垣市(聾の形の舞台)と高山市とでは100km以上離れているため同じ県という認識が薄い。ところが使われている方言がほとんど同じであることに驚いた。中身が三葉の瀧が「なんか訛ってない?」と友人に突っ込まれるが、東京人は100%地方人にそのように突っ込んでくるのでリアルだった。(地方出身者のトラウマのひとつ) あとなぜか瀧くんの部屋に名古屋城のプラモデルがあるのが気になる。なぜ名古屋城