『iモード』ネーミング秘話。

1997年4月に開発がはじまったiモードだが、ネーミングは難産となった。サービスのネーミングについてはまず社内でブレストをして、「モバイル」の「モバ」を使ってみてはどうか、というアイデアが出た。サービスそのものは「モバ」という接頭語に何でも置き換えられるという意味で「*(アスタリスク)」をつけ「モバ*(モバスター)」という名称にして、モバイルバンキングを「モバンク」、ゲームを「モバゲーム」*1といった具合に派生させていく、というもの。今改めて考えてみるとそんなに悪くないのだが、今と違って当時「モバイル」という単語は世の中にほとんど認知されていなかった。また「モバイル」も「スター」も単語として男性的、先進的で堅いイメージがある。女性やネットを使ったことのないユーザーにも受け入れられるような柔らかいネーミングに真理さんはしたいと思っていたため、とりあえず商標登録出願だけして*2引き続き考えることにした。この頃97年の10月ぐらいである。

社内の次は電通博報堂といったいわゆる広告代理店にアイデアを出してもらうことにした。何案も何案も出してもらい、代理店と幾度となくブレストをしたが、真理さんが首を縦に振るようなアイデアはついに出てこなかった。代理店から出てきたアイデアで覚えているのは「ダイナリー("大なり"から)」「AZBY("AtoZ、BtoYから)」「オスカル("ベルばら"から?)」といったようなもの。確かに今見てもいまいちだ。そうこうしているうちに年が暮れてしまった。

社内やコンテンツプロバイダへの提案資料では「携帯ゲートウェイサービス(仮称)」というのがずっと使われていた。夏野さんは提案先から何度となくサービス名を聞かれいい加減シビれをきらしながらも、真理さんが納得するまでやってください、と一任して、真理さんと僕とでうんうん考える日々が続いた。

真理さんがニューヨーク出張から帰ってきたある日。確か98年の2月か3月ぐらいだったと思うが、虎ノ門にある本社から神谷町のオフィスまで真理さんと歩いている時に、突然「栗ちゃん、アイよ!やっぱりアイがいいわ!」と真理さんが言った。真理さんは自分の頭の中ですべての世界が完結しているので脈絡なく唐突に話がはじまるのだが、この1年真理さんとずっと一緒に仕事をしてきた僕はさすがにこれに慣れていた。これを夏野さんは「翻訳スキル」と呼んでおり、真理語の翻訳スキルはゲートウェイビジネス部ではかなりの必須技能である。ドコモの他部署の人やメーカーの人はこの真理語に相当悩まされた。それはさておき、ネーミングのことだ。聞けば真理さんは海外出張でインフォメーションカウンターに「i」のデザインがアイコン的に使われていることに着想して、新サービスのネーミングは「i(アイ)」がいいと言うのだ。もうすでに真理さんの中では「i」をアイコン化したイメージまで浮かんできているらしい。

確かに「i」にはいろんな意味が込められるし、コンシェルジュというサービスコンセプトにもしっくりくる。端末に「i」のアイコンが入っている姿も想像できる。僕は諸手を挙げて賛成したのだが不安もあった、というのもドコモはもともと通信キャリアで伝統的にセンスがない部類の会社である。サービス名を「i(アイ)」にしたら間違いなく「iサービス」と言ってしまうだろう。それはちょっとダサい。それに百歩譲ったとしても「i(アイ)」だけではあまりにも一般名称かつ短いため、現実的に商標が取れないのである。ということを真理さんに伝えたところ、「じゃあ、栗ちゃんが考えて」となった。

「i」は決まった。あとは「i」という単語に何かしらプラスすればいいのだ。それから毎日、ネット、広辞苑、英和辞典などから単語を拾い出しては「i」と組み合わせて検討する日々がはじまった。毎日、その日考えた中でベストな案を真理さんに提出していく。2週間ぐらいボツを食らい続けただろうか。飲み会で聞いた「お疲れモード」という「モード」と「i」を組み合わせたものを真理さんに提出した時、初めて真理さんが首を縦に振ったのである。ネーミングの検討を開始してから半年以上経っていた。

iモードの名称の由来は後に真理さんが「私(I)のi、インフォメーションのi、インタラクティブのi、インターネットのi、に由来している」と語っているが、経緯的にはこのようにして生まれた。ネーミングには「濁点」か「半濁点」が入っていると引っ掛かりがあって印象に残りやすい、日本人は俳句・短歌文化由来で5文字か7文字が馴染みやすい、と真理さんが教えてくれたネーミングのコツに「iモード」がともに当てはまっているところもよかったのだと思う。それに加えて、真理理論によれば名前から受けるイメージはその「音(おん)」によるところが大きいとのこと。具体的な例を挙げてみると、

子音がmの擬音には
まんまん
むんむん
むくむく
めろめろ
もりもり
などがあるが、共通するイメージは「肉感的」である。

子音をsにしてみると
さらさら
さくさく
しんしん
すやすや
そよそよ
で「爽やか」「静的」なイメージを受ける。

rだと
らんらん
りんりん
るんるん
など「弾んだ」「丸い」イメージがする。

真理さんはiモードのコンセプトとして「デジタルだけどあたたかいもの」とつねに言っていた。iモードという名称に肉感的な「m音」が入っているというのもポイントだったのだろう。いずれも後付けといってしまえば後付けかもしれないが、「とらばーゆ」を初めとする真理さんのネーミングノウハウの蓄積が真理さんの「直感」という形で働いて生まれたものなのだ。

iモード」という名称が決まって数か月後、僕は真理さんの「直感」の凄さに驚愕することになる。1998年5月11日、アップルが『iMac』を発表したのだ。その後『iPod』を経て『iPhone』になったのは周知のとおり。全く同時期に生まれた2つの「i」、今振り返ってみると非常に感慨深い。

*1:あれれ?どこかで聞き覚えのある名称だ(笑)

*2:iモードが決まったのでその後手放したと思う

ドコモでスーツを着なくなった日。

真理さんがドコモに吹き込んでくれた外の風に僕もひとつ便乗することにした。社会人になって3年も経つのににスーツに馴れず、特にネクタイの窮屈さが苦手だった僕はこの機会にスーツを着なくて済むようにならないかと考えたのである。真理さんのいたリクルートは営業はともかく編集や企画は私服での勤務がOKなはず。緊張しながら真理さんにそのことを告げると「いいんじゃない。」とこちらが拍子抜けるほどあっさりとOKしてくれた。念のため、榎さんにも確認したところ「早速、真理さん効果かね。本社とはロケーションも離れてることだしいいよ。」とのこと。こうしてスーツが当たり前のドコモにTシャツにジーンズにスニーカーという社員が誕生したのだった。

とはいえ本社に行くときなどはスーツに着替えられるようにオフィスに置きスーツをしていた。特にお堅い部署である経理のハンコをもらいに行くときなどに、服装がやぶ蛇で面倒なことになることを恐れたからだ。とはいえ置きスーツも1年ぐらいで終わる。うまく榎さんが取り計らってくれたからだ。

あるとき、大星社長が榎さんを招集したミーティングに同席することになった。社員数1万人規模のドコモという会社でぺーぺーが社長とのミーティングに同席する機会なんて滅多にあるものではない。ボストンコンサルティング堀紘一氏がカプコン辻本憲三氏を大星社長に引き合わせるということで、ゲームのことを分かる人間がいないからという理由で榎さんに同席を命じられた。さすがに社長と外部のお偉いさんの前にジーンズにスニーカーで出ていくことは憚られたので「置きスーツに着替えましょうか?」と榎さんに確認したのだが、榎さんはそのままの格好でよいとのこと。ただでさえ緊張するのに余計に緊張することになった。さらに大星社長と堀紘一氏の対面である。榎さんに「絶対に笑ってはいけない」と固く戒められた*1ので緊張もひとしおである。

当時バイオハザードが大ヒットしたカプコンとドコモが何か協業できるようなことはないか、という趣旨のディスカッションだったが、大星さんにバイオハザードを見てもらうため僕が辻本会長の前でバイオハザードをデモプレイするといういささか不思議なことになった。「まさかドコモに私服の社員がいらっしゃるとは」と辻本社長。それに「ドコモにもそういう多様性があっていいですなあ」と堀氏も同調されたことで気をよくした大星さんは「ドコモもNTTのようにお堅いだけではダメだとつねに私は言っとるんです」とさも自分が指示したかのように発言され、これによって私服は社長公認となった。榎さんは隣でニヤニヤしている。榎さんはある程度こうなることを予想していたのだろう。万が一社長から突っ込まれても榎さんがうまく言い返してくれたに違いない。

私服で仕事をしたからといってクリエイティビティが身につくわけでは決してない。それでもドコモに私服が認められる部署がある、というのは社内から人をリクルーティングするにあたっての道具になり得た。自由な雰囲気で仕事をしたいと思う人の方がiモードの開発に適正がある、それは言い過ぎでもモチベーションが高いのは明らかだからだ。エンタメ系のコンテンツプロバイダと交渉するときも私服の方が相手も身構えたり気を遣われることがなくてメリットがあったと思う。クールビズ導入以降、ノーネクタイが一般的になってカジュアルな傾向が強くなったが、当時のNTT、ドコモというのはそれほどまでにガチガチに堅い会社だった。

そんなわけで榎さん、真理さんのおかげでドコモ14年間の勤務の支店時代をのぞいた12年間、苦手なスーツを着ずに私服で通すことができた。ジーパン課長と揶揄されたりもしたけれど(笑)



バイオハザードはビビりの僕には本当に怖かった。

*1:理由はここでは書かない。

松永真理さんとの出会い。

97年4月。公募によって晴れて僕は法人営業部ゲートウェイビジネス担当に配属された。この部署に配属されたのはNECから出向の川端正樹さんというシステムの部長と同じく公募で採用された矢部俊明さんらシステム担当の2名、マーケティング担当は我妻智さんと同期の笹川貴生くんと僕のたった6名の部隊だった。しかも法人営業部の一角を間借りしたスペースにひっそりとお邪魔するというなんとも寂しいスタート。榎さんは法人営業部から専任になるまで数か月かかるということで非常勤。われわれの上司にはリクルートの女性編集長が転職してくる、ということは榎さんから聞いていたが、当面は上司もおらず、4月いっぱいは常駐していたマッキンゼーのコンサルからロジカル思考を学んだりサービスのブレストをする、といういきなりの放任状態からはじまり、気楽な反面これで大丈夫なのかなあという得も言われぬ不安の中、iモード開発への第一歩がはじまった。

とらばーゆ編集長からまさしくとらばーゆされた松永真理さんと初めてお会いしたのは、銀座の研修施設でブレストをしていた4月14日のことだ。夜にゲスト参加で榎さんがわれわれに真理さんを紹介してくれたのだが、真理さんは開口一番「ウッズ見た!?ウッズ!すごいわよね!」と出てくる言葉はとにかくウッズウッズと大興奮。ちょうどタイガーウッズが史上最年少でマスターズ・トーナメントを史上最年少の21歳3か月で優勝した日だったのだ。その場にいた誰もが真理さんのペースに飲まれた。今までに接したことのない全然違う業界の人というのが僕の第一印象だった。おかげで真理さんと話すにはつねに話題のニュースを仕入れておかなければならず、そういう真理さんの感度みたいなものから学べたことは大きかった。

そして5月の連休明け。地下鉄神谷町駅直上に位置する神谷町森ビル4Fに新オフィスに移転しゲートウェイビジネス部が発足、真理さんも合流する。真理さんの上司としての最初の指示は「絶対に真理部長と呼ばないでちょうだい。まり、の後にぶちょうという響きが続くのは私の美的感覚に合わないの。これからは真理さん、と呼ぶように。」というものだった。だだ広いオフィスの1/3しかまだ机が埋っておらず残りのスペースで笹川くんが本社までの行き来のために購入した自転車を乗り回していたのが印象的だった。これは真理さんも印象深かったらしく『iモード事件』にも書いている。

同時に真理さんのオーダーで革張りの応接ソファに間接照明、木目調の箱に収納された冷蔵庫やバー設備を備えたおおよそNTTらしくない接待応接部屋兼ミーティングスペース「クラブ真理」が開設される。ちなみに同期の笹川くんは笹川財団の御曹司で、今後その御曹司キャラをiモードのために最大限活かしてくれるのだが、まず彼の最初の仕事はクラブ真理にサントリーのお酒を完備することだった。神谷町への移転やクラブ真理の設置などは総務の曽根一泰さんが剛腕を発揮。曽根さんは一見、任侠映画に出てきそうな強面の出で立ちで、敵に回せば怖いが味方になればこんなに頼もしい人はいない、という人である。笹川くんとクラブ真理でよく鳥羽一郎の『兄弟船』をデュエットしていたのが思い出深い。クラブ真理にはタイトーとドコモが共同開発したモバイルカラオケSASAが設置されカラオケスペースにもなった。ドコモというお堅い会社にクラブ真理という夜っぽい施設がある、というギャップはかなりの評判となり、コンテンツプロバイダをはじめ、各業界の方が一度は来てみたいということで高い集客効果を発揮。十二分に元はとれたと思う。革張りのソファは寝心地バツグンで個人的にも会社に徹夜の際はお世話になった。

真理さんの発案で銀座のホテル西洋のスイートルームを借りテレビ業界や出版業界たちを招待してブレインストーミングをする、みたいなことも行った。放送作家小山薫堂さんなど著名な方がいらっしゃって携帯電話でどんなことができたらおもしろいか、というテーマで話し合ったりした。榎さんの記事によればその後、国税対策などが大変だったようである(笑)。
クラブ真理でのブレストの日々

真理さんによっていい意味で「ドコモらしくない」「NTTらしくない」風が吹き込まれ、自由な発想からサービスのコンセプトが徐々に固まっていった。それまでこんな新技術があるからサービスを作ろう、といういわゆる技術オリエンテッドでサービスを企画・開発してきたドコモで、初めてユーザーオリエンテッドなサービスが生まれようとしていた。

余談だが、真理さんと本屋に行って大量に購入した企画資料の中に占いのソフトウェアがあった。(さらに余談だがこの資料を買うにあたっていかにもNTTらしい事件があり、それは榎さんの記事に詳しい)「栗ちゃん、早速やってみましょうよ!」と真理さん。といっても真理さんはまったくの機械音痴なので僕がPCにソフトをインストール、「真理さん、生年月日を教えてください」と聞いて入力しながらはたと気がつく。「真理さん、この間教えてもらった年齢と違いませんか!?」そう、真理さんは部下の僕にまでサバを読んでいたのだ。「人間って占いだと正確な生年月日を伝えるのね。発見だわ。」そう、個人情報の生年月日を正確に確実に取得できるのは占いコンテンツなのだ。こういうところにすぐに気づいて切り返すのがいかにも真理さんらしい。

ドコモ新入社員時代 後編

お客様対応に明け暮れているうちに新入社員1年目はあっという間に過ぎた。入社2年目となる1996年には販売代理店であるドコモショップの展開がかなり進み、支店の窓口には多少の余裕が出てきた。そこで僕は支店の法人営業担当に異動となった。法人営業担当といっても兼務の部長1人に定年間近の課長1人、僕と同期の女の子、たった4人の小さな部署だ。そこでは社用車を使って官公庁や大口顧客の御用聞きやドコモショップの支援をするという日々が待っていた。ドコモに入るまで千葉県とはほとんど縁がなかったが、法人営業に配属されて千葉がとても広い県であることを知る。銚子や館山に出かけるとほぼ1日終わってしまうからだ。

それはさておき、ドコモの初代社長大星公二さんは先見の明の持ち主で、携帯電話が普及し始めた96年の時点ですでに「ボリュームからバリューへ」というスローガンを掲げ、携帯電話市場が飽和する前に当時の収入のほぼ全てであった音声収入とは別にデータ通信という新たな収益源を生まなければならないと考えていた。好業績時の利益を内部留保や配当に使ってしまうような短期的な視野の会社が多い中、未来への投資をしようとしていたのだ。そのため本社に「モバイルコンピューティング部」という部署が新設されデータ通信用の機器やサービスを開発するとともに、支店に対しても9600bpsのデータ転送を活用したモバイルFAXやデータ通信用のモデムを、まずは法人に対して売り込めという指示が飛んだ。

Windows95が発売され、なんとなくインターネットという存在があるということは知られてきてはいるものの、支店にあるWindowsマシンはたった数台。仕事はほとんどオアシスというワープロ機とFAX、固定電話でする時代。当然電子メールなんてない。パソコンを使いこなせる社員も支店にほとんど存在しなかった。こんな状況で本社の指示に対応できるはずもなく、そういうことは若い人間がいいだろうから新人社員にやらせよう、ということになり僕に白羽の矢が立った。僕が支店で抜群の働きをしていたから、とか将来有望そうだから、という理由では決してない。千葉支店の四大卒で法人営業の男性が僕1人だけだったからだ。

パソコンやインターネットに関することに予算がつき、僕はネットと遭遇することになる。僕はゲーム大好き少年だったがファミコンを買ってもらえなかった。ただ家が自営業ということもあってPC-9801VM*1が家にあった。もともと戦略系のゲームが好きだったこともあって大戦略や光栄の歴史シリーズなどで遊んでいたのだが、大学生で上京後はパソコンが高価だったことや一人暮らしでコンシューマーゲーム機を買ったこともあってパソコンから遠ざかっていた。パソコンが使えます、と言ってもできるのはゲームとフロッピーのフォーマットである。

ドコモがアップルになれなかった理由とは
ファミコンを買ってもらえなかった件はカドカワドワンゴの川上会長との対談に詳しい

最初に買ったパソコンはシャープのメビウスだった。シャープのパソコンといえばX68000という世代であり*2なんとなく選んだ。NIFTY SERVEにも加入してパソコン通信にもチャレンジしてみた。パソコンについて教えてくれる先生もいないのでほぼ独学である。ところがこのパソコンやインターネットという代物と縁のなかった文系の僕にとってはとにかくチンプンカンプンなのである。まず最初に分からなかった用語は「プロトコル」だった。パソコンの解説書で意味が分からない用語を調べるとさらに意味の分からない用語にぶち当たるという有様で、それなりに使いこなせるようになるまでにはずいぶんと時間がかかった。サイトを見るのにはブラウザが必要でブラウザを立ち上げてヤフーなどの検索エンジンで検索しなければならない、と今では笑ってしまうほど当たり前のことすら分からなかった。そういえば当時はホームページ*3を紹介したムックが本屋に並んでいて、そのサイトを見るために記載されているURLを直打ちするという今では信じられないような時代だった。

そんなこんなでパソコンやネットをそれなりに使えるようになったのだが、ネットとメール、そしてNIFTY SERVEのフォーラム(コミュニティ)は目からうろこが落ちるほど新鮮な驚きだった。こんなに便利で楽しいものは必ずみんなが使うようになるに違いない、と学生のとき携帯電話に感じた可能性と同様な思いを持った。パソコンに詳しくなったからといってデータ通信関連の商品やサービスが売れるわけではなかったのだが、会社のお金と勤務時間でネットに遭遇させてくれたドコモ千葉支店には感謝しても感謝しきれない。

その後、本社から支店にLANを構築すべしというお達しがきて僕が担当することになり、多少なりともお返しをすることができた。その頃、学生時代のバイト仲間で一年留年して後からドコモに入社してきた親友の伴拓影くんが「これ知ってる?」と僕に教えてくれたのが「ゲートウェイビジネス部の社内公募」のお知らせである。

榎さんの記事から公募文書を以下引用。

「マルチメディアやインターネットの時代には、ユーザーとコンテンツやアプリケーションの仲立ちをして情報流通を促進するサービスとして『ゲートウェイビジネス』のマーケットが出現してきます。モバイルの世界でも同様です。例えば、高機能携帯電話を用いたショートメールによる情報提供やイントラネットとの接続等です。このようなモバイル・コンピューティング・マーケットの創出とそれに伴うトラフィック増進を図るため、法人営業部では、今春ゲートウェイビジネス業務を新規に立ち上げます。そして、本業務を成し遂げるためにはチャレンジブルな人材を必要とするため、今回、広く社内から人材を公募することとしました。志のある社員の皆さん、老若男女、職位を問わず活発なご応募をお待ちしております!

【業務内容】

  1. 事業企画業務:事業コンセプト作りや事業計画の作成や管理。
  2. マーケティング業務:サービスやコンテンツの企画、コンテンツ・プロバイダーや広告主の開拓。
  3. プラットフォーム業務A:ドコモ網の改造仕様、課金、端末仕様の設計。
  4. プラットフォーム業務B:サーバーのシステム設計

この公募文書には衝撃を受けた。読んだとき「これしかない!」と思った。”携帯電話とネット”僕をワクワクさせてくれたこの2つを結びつける仕事。こんな仕事がはじまるなんて願ったり叶ったりだ。なにはともあれ選考にはまず小論文審査があるということで小論文を書いて提出した。伴くんは技術系で本社の通信技術部配属だったこともあり本社の発信情報に対して感度が高かったことが幸いした。千葉支店の僕までその情報は入ってこなかったので、彼が教えてくれなかったら間違いなく今の自分はない。半沢直樹でいえば渡真利忍的なグッジョブであり、本当に感謝している。

小論文は自らの体験から、ネットを初心者が使うにはとにかくハードルが高いのでもっとエントリーバリアを下げて誰でも使えるようにしたい、というようなことを書いた。小論文の考査に通って面接があるということで本社まで出かけた。当時ドコモの本社は虎ノ門新日鉱ビル(現虎ノ門ツインビル)にあった。私の恩師となる榎啓一さんは大星社長からiモードの立ち上げを命じられるとともに本社の法人営業部長となっており同じ法人営業ということもあって初対面ではなかったが、面接は榎さんの隣に座るエリートサラリーマン然とした眼光鋭い男性とのやり取りに終始した。彼がマッキンゼーの横浜信一さんということは後で知る。榎さんの記事ではこれが「圧迫面接」だったと書かれている。確かに話した内容から次の質問、次の質問と矢継ぎ早にされたことは覚えているが、圧迫面接というストレスを感じた自覚はなかった。榎さんのメモによれば映画の上映情報やオリコンチャートなどを携帯端末に流すことを提案したらしい。榎さんに聞くまですっかり忘れていた。

何日かたって直属の上司から呼び出されて「どうして勝手に公募なんてしたんだ」と叱責された。ドコモでこの手の社内公募は例がなく、プロジェクトが社長直轄ということもあってかなり絶対的な人事異動だったということだが、いきなり何の相談もなく若手を本社に奪われることは支店としてはかなり不本意だったらしい。特に支店から本社への配属は最低でも入社3年目以降というのが通例でこの手の慣例を重んじるNTTの体質的にこの公募は社内ではかなり不評だったようだ。とはいえ、あくまで前例がないということへの反発であって僕をどうしても手放したくない、ということではない。支店にとって僕はなんとなくパソコンには詳しいが、何をやっているかよく分からない新入社員、という評価でしかなく、最終的は新設されるゲートウェイビジネス部へ配属されることになった。

ゲートウェイビジネス部に配属されて榎さんに「どうして僕は受かったんですか?」と聞いたところ、「君はNTTグループ社員らしさということでは標準偏差のカーブのどちら側かは分からんが間違いなく平均的な社員ではないだろう。ドコモの本業はNTTグループらしい社員にしっかりやってもらわないと困るからだよ」とニヤリと笑って言った。


織田裕二を起用した当時のドコモのモバイルコンピューティング推しのCM。正直こんな使い方をしている人はほとんどいなかったと思うw

*1:PC-9801VMは名機と言われかなり寿命の長い機種だった

*2:コンプティークを愛読していたのだ

*3:本来ホームページとはブラウザでホームに設定したページであって、サイトそのものを指す用語ではないのだが「ホームページビルダー」などのせいでホームページ=サイトと認識されていた

ワクワク感と飽きについて考えた。

おもしろいことが減った、という話を最近よく聞く。昔のテレビはおもしろかった、昔のゲームはおもしろかった、昔のケータイはおもしろかった。人は好奇心の塊なので、好奇心を満たしてくれるような未知の刺激に対してビビッドに反応する。それが自らも成長している思春期に接したものであるならばなおさらだ。さらに人は「成長するもの」に接したり、見たりすることが大好きだ。映画でも小説でもマンガでも人の成長は大きなメインテーマだし、ゲームでキャラクターやユニットを育てていくことに多くの人が熱中する。エッチすることを楽しいと感じなければ人類が絶滅してしまうのと同じ本能のレベルで、人は成長することを楽しいと感じるがゆえに子供を育てられる。

テレビやゲームやケータイを楽しいと感じたのは、それぞれが持つエンターテイメント性や個々のコンテンツを楽しいと感じたのはもちろんだが、その業界が成長する様そのものに触れることにワクワクしたのではないだろうか。ただ残念なことにこれらの業界は成熟してしまった。今までにないおもしろさの個々のコンテンツが登場することで盛り上がることはあっても、成長する業界が放つ眩しいばかりの魅力を感じることはできない。

未知の刺激に対して人間は慣れてしまって最終的には飽きる。人間が飽きる時というのは「知識と経験の蓄積によって対象を理解した時」である。人間は分からないことに対して「それはどういうことなんだろう」と好奇心を持つ。分からないからこそ気になるしおもしろい。分かってしまえば好奇心を失って飽きるのである。だいたい名作と言われるコンテンツは人間の本能を忠実にくすぐる王道のタイプの作品とよく分からないタイプの作品の2つのタイプにわかれる。そういう点で『エヴァンゲリオン』は分からないからこそおもしろい作品の代表例だといえよう。*1最近だと『進撃の巨人』もまさにこのタイプだ。男性が女性に、女性が男性に惹かれるのも「分からないから」であり、「相手のことが分からない」といって相手を責めるのはお門違いだといえよう。*2

ネットの普及によって業界が成長して成熟するスピードは格段にあがった。ネットを介して大量の情報を得ることができるので多くの人が「分かってしまう」もしくは「分かった気になってしまう」からだろう。だからこそ、これからはより「分からない」もしくは「ままならない」ということがキーワードになっていくと思う。

僕が何十年と続けていて飽きない趣味のひとつが「スノーボード」でもうひとつが「競馬」だ。スノボは当初はオーソドックスに自分の技術が上達することが大きなモチベーションだったが、今は最高なコンディションで滑ることに変わっている。新雪のパウダーをよく晴れた早朝に滑り降りることが最高の喜びなのだが、こんなによい条件に出会うことは1シーズンに1回あるかないかであり、まさにままならない。競馬は馬が仔馬から成長して親になり子孫に繋がっていくのを楽しめるという点では成長ドラマなのだが、馬券を当てるということになると予想という知的ゲームであり、当てるだけでなく儲けるということになると投資である。どれだけデータを集めても当たらないときは全く当たらない。まさに「分かる」に永遠に至らないゲームである。

おじさんの趣味といえば昔から野球観戦に釣りが定番だが、どちらも結果が分からなくてままならないものだ。*3自身が成長してしまった後に、スポーツや自然相手の趣味に行きつく、というのはひとつの真理なのかもしれない。

*1:ここまでいくと作っている庵野監督自身ですら分からないのではないかとさえ思える。

*2:僕は最高の女性というのは一緒にいてもいつまでも飽きない女性だと思っている。

*3:野球と釣りが趣味といえば糸井重里氏が真っ先に思い浮かぶ。

ドコモ新入社員時代 前編

1995年春、晴れて僕はドコモに入社した。当時ドコモはサービスブランド名であって社名ではなく「NTT移動通信網株式会社」に入社したと言うのが正しい。ただし、長いので便宜上以後ドコモとする。ちなみに競合のIDOの正式名称は「日本移動通信株式会社」だ。「移動通信」というのが業界用語だったことが分かる。ドコモ(DoCoMo)という名前は「Do Communication over the Mobile network(移動通信網で実現する、積極的で豊かなコミュニケーション)」の略だが、もちろん後づけで、移動体通信の最大の特徴である「どこでも」をもじったものだ。僕はこのネーミングはかなり気に入っていたし、堅さと柔らかさが同居している当時のCIも好きだった。ついでに言うと社名の最後の「網」というのもなんとなく可愛くて好きだった。

↑2008年までのコーポレートロゴ

当時のドコモは全国1社体制ではなく、本社・開発機能および関東甲信越を管轄とするドコモ中央と北海道、東北、東海、北陸、関西、中国、四国、九州の8つの地方販社とで構成されており、僕はドコモ中央の入社だった。NTTグループは入社の年次で同期を呼ぶ慣習があり、僕はゼロナナ入社組、ということになる。ゼロナナは全国で200人、中央が100人、そのうち技術系50人、業務系50人だったと記憶している。*1まずは仙台のNTTの研修センターで全国合同の新人研修があり、その後東京でドコモ中央の新人研修、そして配属というスケジュールだった。

95年春の入社当時、携帯電話の加入数は全国で1000万台足らず。ドコモの会社としての知名度もかなり低く、家族も親類も僕がNTTに入社した程度の認識しかなかった。ところで奇しくも入社した95年というのは携帯電話の普及において大きな節目の年となる。理由は3つ。それまでレンタル契約しかなかった携帯電話に買い取り制度が導入されたこと、95年1月に起きた阪神淡路大震災によって有線インフラに壊滅的な被害が発生し無線の強さが見直されたこと、規制緩和によって通信キャリアがドコモ、IDOに加えてデジタルホングループ(現ソフトバンクモバイル)とツーカーグループが参入して4社となり競争の激化とともに各種料金の値下げが行われたことである。

買い取り制になったとはいえ、それでも加入料金が3万強、端末代金が6万強で携帯電話を買うのに10万円ほどかかり、月々の維持費も1万円以上かかる時代に加入数が1年で倍の2000万台になったのだから、現場のオペレーションは混乱を極めていた。*2当時はまだ販売代理店であるドコモショップも黎明期であり店舗数が少なく、ドコモの各支店にある直営店が旗艦店としての役割を担っていたが、連日満員で2時間待ち、3時間待ちは当たり前。さらに輪をかけたのがポケベルの普及で、この年発売されたカナを送信できる「センティーシリーズ」が大ヒットしたこともあって窓口は人で溢れていた。それに対応するため、95年入社の同期のうち技術系採用でない業務系の社員のほとんどがこうした直営店に回され、僕は千葉支店の窓口へと配属になった。

千葉支店の窓口ではおじさんに携帯電話を女子高生にポケベルを売る毎日。当時、携帯電話を持っているお客様にはその筋の方が多く、「お金は払えないがとにかく電波停止している携帯を使えるようにしろ」と怒鳴り込むお客様に丁重にお断りしたら「帰り道に気をつけろ!」と言われてしまい上司に護衛されて退社したりとか、「刑務所に入っている人名義の携帯電話を譲渡したい」というお客様に「刑務所におられる方から代理人の委任状をもらってくるよう」にお願いしたりとか、自動車電話のアンテナを取り外すときに後で問題にならないように車の写真をたくさん撮ったりとかいろんなことがあった。「いい番号で契約するまで窓口を動かない」というのも多かったが、こういうときのために支店では警察のOBの方に顧問をお願いしていてその筋の方にはその筋の方に対応していただくみたいなことが日常的にあった。*3

当時ちょうど第一世代の携帯電話(アナログ)と第二世代の携帯電話(PDCデジタル)とが混在している時代。会社としてはデジタル推しだったのだが、まだまだエリアがアナログほどカバーできていないこととアナログと違ってブツっと切れてしまうことなどが不評で、特に千葉エリアは山あり海ありでデジタルを勧めた結果よくクレームになったりしたため、窓口での説明には苦労した。アナログが何のことかよく分からずに「アナクロの携帯電話をくれ」と言ってきたり、HYPERという通信速度9600bpsの機種*4を「ハイパワーなやつくれ」と言うおじさんがたくさんいて毎回吹きそうになった。

そんな中、発売されたデジタル・ムーバPII HYPERは大ヒット商品となり、特にシャンパンゴールドはその筋の方中心に大ヒット。ずっと黒色やグレーが当たり前だった携帯電話に突如ゴールドが出てきたインパクトは大きかった。これはこれで品切続出のためお客様対応が大変で窓口の新たな悩みの種だったが。
後継機のP101のシャンパンゴールド

ノキアモトローラといった海外の端末が発売されたのもこの頃。支店でたくさん売るべしとのお達しが出たものの、なかなか売れなかった。ただモトローラは付属品などが海外と共通で日本で買う方が安いということで中国の方が電池パックだけ大量に買われるということがあった。端末の人気は松下がずば抜けており、次いで三菱、NEC富士通、といった順だった。

殺伐とした携帯電話の窓口と比較してオアシスだったのがポケベルの窓口。女子高生や若者がメインでヘビークレームもほとんど発生せず、ポケベル窓口担当のときは朝から心が平穏だったものだ。ポケベルを開通させた確認としてお客様にお渡しするポケベルを鳴らす導通試験というものがあったのだが、気の利いたメッセージを送ると喜ばれたりしたので、そこで僕はいわゆるベル打ちスキルを身に着けることができた。ダイヤルにブラインドタッチで自由にメッセージを入力できるまで上達したのだが、これは初期のiモードの端末の文字入力に「ポケベル入力方式」という仕様として導入するきっかけになったので無駄ではなかった。

毎日朝から晩まで途切れることのないお客様の対応をすることは本当に大変だったが、どんなお客様がユーザーなのか、というのを身をもって知ることができた上に、自社の製品やサービスを総合的に把握できるという体験は今考えるととても貴重だったと思う。入社したらまずは現場へ配属、というのは日本企業によくあるパターンで泥臭いと言われるが、これは決して間違いではない。


ドコモのポケベルCMといえば広末涼子というイメージしかなくてみんな忘れてると思うが、広末涼子のCMは96年からで入社当時の95年のCMキャラクターは葉月里緒奈だった。

*1:ひょっとしたらそれぞれその倍の人数だったかもしれない。

*2:当時の携帯電話はとてつもなく高いものという印象だったのだが、加入料金はともかく端末代金6万円の維持費1万円って今とたいして変わらないことに気づいて驚いた。ドコモショップで2時間待たされるのもあまり変わっていない。

*3:今は違います。

*4:1秒間に1.2kbyte送れるということだが今考えると隔世の感がある。

絵文字が日本で生まれた理由(わけ)

なぜ絵文字が生まれたのか? 「絵文字はなぜ生まれたか − メラビアンの法則」では絵文字によって端的なテキスト情報に感情情報を付加することでテキストコミュニケーションを円滑にしようとしたことを、「絵文字はなぜ生まれたか − PocketNet」では限られた情報量の中で絵文字を使うことで分かりやすく情報を伝えようとしたことを書いてきたが、絵文字を開発するにあたっては、これら2つの絵文字の役割についてそれぞれお手本となるものが存在した。感情情報の付加については「マンガ」、情報の分かりやすい伝達については「ピクトグラム」である。今回は絵文字が日本文化をバックボーンにして日本で生まれるべく生まれたことについて書きたいと思う。

漫符」というものをご存じだろうか?漫符とはマンガ特有の記号的表現のことで、具体的には汗を表した水滴型のマークを顔に描くことで「焦り」や「困惑」などを表現したり、湯気を表した曲線を頭の上に配置することで「怒り」を表現したり、電球マークを使うことで「閃き」を表現したりするようなものである。「漫符」という言葉が初めて使われたのは確か『サルでも描けるまんが教室』と記憶しているが定かではない。漫符という言葉のはじまりはともかく、手塚治虫ヒョウタンツギから出ている鼻息(?)マークから推察するに、マンガの黎明期から表現方法として使われていることは間違いない。

1972年生まれの僕は、小学2年生で「コロコロコミック」創刊、小学校高学年から中学生にかけて「少年ジャンプ」の黄金期、「ニュータイプ」創刊、高校生で「ヤングサンデー」「アフタヌーン」など数々のマンガ誌の創刊・黄金期を経験しており、いわばマンガの成長とともに育った世代であるので、こういった「漫符」スタンダードによる表現についてはごく自然に身についていた。ファミコンを買ってもらえない僕でも、母方の実家が床屋であったため待ち合い席用にマンガがあり、マンガについてはかなり早い時期から読んでいた。小学校低学年で『マカロニほうれん荘』のチャンピオンを読んでおり、小学校高学年にいたっては『課長島耕作』のモーニングを読んでいた早熟のマンガエリートである。そのようなこともあって(笑)ハートマーク以外の感情表現を記号に求めるにあたってマンガを参考にするのはごく自然な流れだった。

このように絵文字の開発にあたってメールに使うための感情系絵文字については基本的にマンガから着想を得た。自分が愛読しているマンガから、なるべく多くの人が理解できるスタンダードな漫符をピックアップしていったのだ。このような経緯で生まれた絵文字は以下のようなものである。

これらはマンガ由来のため、キスマークや♪、ZZZといった欧米でも一般的な表現はともかく、それ以外の記号については日本以外の国では意味が分かりにくいと思うのだが実際に海外でも使われているのだろうか?

ピクトグラム」が情報系の絵文字の由来になっていることについてはさほどの驚きはないだろう。ピクトグラムで有名なのはトイレを表すマークや非常口を表すマークだが、街のインフォメーション用サインとして広く使われている「ピクトグラム」を世界に広めたのも日本だということはあまり知られていない。1964年の東京オリンピックの開催にあたり世界中から多くの人が日本に集まることになったが、当時は施設に対して「食堂」「お手洗い」のように日本語の表示しかされておらず、世界中から来日する人に対してどのようにナビゲートしていけばよいかが問題になった。そこで「各国の文字をすべて案内に表示することは不可能、であれば「絵」で表現すればよいのではないか」と提案したのが東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝氏だった。氏のもとに多くの若手デザイナーが集い、いくつものピクトグラムが考案された。

当時考案されたピクトグラムこちら

ピクトグラムの考案において最も難しかったのは「トイレ」だったという。オリンピックの競技種目が体系的にピクトグラム化されたのもこの時が初めてで、これが高く評価され、その後のオリンピックでも各国が競技種目のピクトグラムをデザインしていくことが慣例となったという。またトイレなどインフォメーション用のピクトグラムもこれがきっかけで世界中に広がっていった。現在、海外に旅行してもわれわれが迷うことなくトイレにたどり着けるのは日本の先人のおかげなのだ。日本発のピクトグラムが世界に広がっていくことを後押ししたのも勝見氏の功績。というのもピクトグラムが完成したときに勝見氏がデザイナーに呼びかけて著作権を放棄させたからだ。僕が開発した絵文字も当初著作権を取得しなかった(これについてはいずれ語る)のだが、この点も普及していくために重要な要素だったといえよう。

ピクトグラムを参考に生まれた絵文字は以下のようなものである。

このように絵文字は「マンガ」と「ピクトグラム」というどちらも日本発の文化をバックボーンにして日本で生まれるべく生まれたわけだが、その土壌は「漢字」文化にあると僕は考えている。漢字はアルファベットのような表音文字に対して表意文字といわれるが、漢字そのものがそもそも甲骨文字という「絵文字」から生まれたものである。⇒漢字の成り立ち

iモードの開発においてもディスプレイ領域の制約が厳しい中、少ない文字数で伝達できる漢字の便利さに救われたものだ。Twitterの140文字という文字制限においても日本語は非常に有利で、英文でツイートしてみれば分かるのだが「え!?これだけの内容しか書けないの!?」とTwitterに慣れた日本人ほど驚く。漢字はもちろん中国が本家だが、早い段階から仮名文字を作り出してハイブリッドな表現方法に慣れてきた日本人は文字や絵による情報伝達が得意なのだろう。もちろん日本語も長所もあれば短所もあって、1音に1語乗せられる英語に対して1音に1音しか乗せられないから音楽には向いていない。全角文字だから数学やコンピューターにも向いていない。表音文字によって作られたコンピューターに表意文字によって作られた絵文字が乗っかって多くの人が使っていると考えてみるとおもしろい。